長いものには…

■僕が住むこの小さな町が、新聞上でもネット上でも、子供が当事者である”ある式典”で起きた出来事のために注目を浴びている。
■「規律に従わないのはけしからん」「約束事を守れないことを恥と感じないのか」「晴れの式が台無しになって、式典当事者の子供たちがかわいそう」という言説が飛び交う。
■しかし、その”規律”や”約束事”、また、その”式典”がいったい誰のためのものであるのか、つまり、その”式典”そのものの存在の意味や、その”式典”で”規律”に従うということが、本来、誰に何をもたらさんがためになされることなのかについてまで議論を深めようという気配は、それらの言説の中には、ほとんど無い。
■そこにあるのは「すでに決まった事」のみであり、「長いものには巻かれておけ」「常識には従っておけ」という、”事なかれ主義的発想”である。
■また、子供たちが”約束事”に従わなかった事に対して、「親の躾はどうなっているんだ!」とか「偏った大人の間違った”指導”があったからだ。子供は犠牲者なのだ」などとい言説もある。過激なところでは「思想的に偏ったその大人は、その組織から抹殺すべし」という、じつに乱暴な言い分さえある。
■まぁ、大人は大人同士、意見の違いは大いにあろう。で、自分と全く異なる意見をもつ人間を排外してしまいたくなる気持ちも、まぁ分らないでは無い(かといって、実際に安易に排外していいというわけではない。大人は大人で、意見の違うもの同士、まずは大いに議論をすればいい)。
■しかし、ここでやはり大いに気にしなければならないのは、ここにおいても、本来当事者であるはずの子供自身の主体性が、巧みに脇へ追いやられていることだ。
■「子供の主体性」の話をもちだすと、即座に次のように返されるかもしれない。
■「今回のように高度な政治的判断を要求される”約束事”を守るか守らないかについて、子供が子供自身の自主的判断で決められるわけがないではないか。大人が悪知恵を吹き込まなければ、子供自らがあえて約束を破るという決断を下せるわけがない」。
■つまり、子供は自己判断する力をもたない存在であり、”大人に隷従するべき存在”である、という発想だ。
■本当にそうなのだろうか。子供というものは、そんなに信頼するに足りない存在だろうか。僕は疑問を抱かざるを得ない。
■僕ら大人は、本当に子供が「決められない存在」なのだと断言できるのだろうか。もし「そう言い切れる」というのなら、では果たして、その検証はしっかりとなされたのだろうか。大人はそれを誠意をもって検証”しようとした”のであろうか。
■つまり、「あなたたちに、このことの判断をして欲しい」と、子供たち自身の前に判断すべき問題にまつわる検討素材をすべて差し出し、真摯に「あなたはどう思う?」と、面と向かって訊ねただろうか?
■僕は、もしそれが、子供たちに対して誠意を持って十分に行われた上であれば、子供がその”規律”を守ろうが
■そもそも、この”式典”が執り行われるところの集団=つまり学校というところは、今回の争点となっている問題に限らず、あらゆる事柄についての「あなたはどう思う?そして、あなたはどうする?」を、子供が子供なりの判断で答えてゆくための力を培うところなのではないのか。
■それこそが教育というものの最終的かつ唯一の目標であり、それをシステマティックに訓練してゆくための、「判断のよすがとなる素材を提供する」ための、国語・算数・理科・社会…なのではないのか。
■「あなたはどう思い、それについて何をする?」と問いかけすべきをせず、一律に「決まった事には黙って従いなさい」を押し通す。それが学校だ、組織だ、その組織の構成員として”礼を尽くす”ことだというのなら、それはもう既に教育機関とはいえないのではないかと僕は思うのだ。
■いったい誰のために、何のために、学校はあるのか。そして、誰のため、何のためにその”式典”は行われ、その”歌”がうたわれるのか。それを真摯に問わずして、当事者である子供たちの主体性をまともに考えようともせず、今回の問題を「じつに由々しき事態だ…」などと嘆いてみせるのは、手前勝手で怠惰な大人のエゴだとしか言いようがない。
■それこそ、子供がかわいそうである。