鶴見和子・対話まんだら

■ああ、昨日(正確には一昨日)読み始めたばかりなのに、ほぼ一気読みしてしまった。「鶴見和子・対話まんだら~佐佐木幸綱の巻」。夜更かしは身体に悪いとわかっているのだけれど…。
■「対話まんだら」は、社会学者・鶴見和子と、科学・芸術など様々な異分野の第一人者との対談記録で、全10巻シリーズ。第3巻となる本書で対談している佐佐木氏は、歌人であり日本文学者。鶴見氏自身も短歌を詠むそうなのだが、本書では短歌を軸にして、ことばや歌に始まり、社会論や人間存在論についてまで話題が展開されてゆく。
■読み始めれば、「型と型破り」「発語といのちの根源」「生命のリズム」「アニミズムと歌」「循環」「内発的発展」「詩と科学」「漂泊と定住」「根拠へ向けて」…などなど、その字面を見るだけでドキドキするようなことばが次々に飛び出してくる。
■しまいには、
【佐佐木】
言霊の問題をどうお考えでしょう。言霊とは、…「言葉にもアニマがある」という見方だと思います。言葉は、そこで完結するんじゃなくて、…それ自身で循環の意思を持っているんだろうと思います。
【鶴見】
そう、こだまね。
…などというやり取りが交わされる。
■ここだけ抜き出せば、えらく抽象的に過ぎ、若干オカルト的な印象も感じられるかもしれないが、しかし、今月までの4年間、ある雑誌に「遥かなる木魂(こだま)を聴く」などという題名で、主にいのちと存在にまつわる心象記事をことばと写真で綴ってきた(つもりでいる…)僕にとっては、こうしたやり取りは、言ってみれば「ツボに的中!」以外の何ものでもない。(じつは今日、ある友人アーティストからもらったメールで、一連の連載の最終稿の読後感として「すべてが環になったような気がした」と言ってもらったばかりだった。きっとそれも作用してのことだろうが…)
■夢中でぐいぐいと読み進み、気が付いたら最後の解説を読んでいた。知らぬ間に日付が変わってしまっていた。しかし、こんな読書体験を出来る本と出会えるのは、実に幸いな事だと思う。
■この本を手にしたのは、いつも世話になっている札幌の絵本屋Hだ。ここには、絵本や児童書だけでなく、冊数は少ないながらも店主選りすぐりの「大人向け」の書籍も置いてある。何気なくその書棚の一角を覗いていて、本書の帯のことばがぱっと目に付いた。
■”どうしたら日常のわれをのり超えて、自分の根っこの「われ」にせまれるか?”。うむ、これは買ってでも読まないわけにはいかないな…とその時点で思う。
■実は「鶴見和子・対話まんだら」は、今年2月、別の絵本屋(旭川市のF堂)の店主に薦められ、シリーズ第2巻「中村桂子の巻」をすでに読んでいた。生命科学者との対談が納められたその巻も、刺激的で面白かった。
■各分野の第一人者同士、特に学者同士の会話の中には、完全に理解しきれぬ表現や、こちらの無知ゆえに読み解けない文脈もたくさんある。でも、それぞれが己が専門分野に固執せず、互いのフィールドが重なり合う境界部分にこそ世界の本質を見ていこうとする果敢な姿勢を感じられるだけでも、充分に読む価値はあると思えた。
■ところで、2巻と3巻のどちらも、絵本屋さん、つまり「子どもの本」の店で入手したということになる。偶然とはいえ、それが不思議で面白い。
■しかしその一方で、このことは、「子どもの本」というものが如何に深くて太い根幹によって支えられ立っているのかということを暗に物語っているようにも思える。なんだか、きゅっと身が引き締まる。
「根幹」に関して、ついでの蛇足追記-------------------------------
■桁外れに多量の参加者が各々の情報を流し、それを基にした仮想現実社会ネットワークを構築しようとする、その名もSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)というジャンルのインターネットサイトがある。その代表格は「mixi」。
■数百万人が参加するというそのサービスに、僕も参加していた。でも、一昨日から、そこへの参加(書き込み)や、そのサイトへの訪問、ページの閲覧自体を止めることにした。
■僕が知りえた限り、そこには、ある物事や人間関係が拠って立つべき「根幹」の存在が感じられず、それどころか、はたしてそこに、真にヒト同士の「関係」と呼べるもの自体があるのかどうかさえ、よく分らなくなってきたからだ。もっと簡単に言えば、その空間にものすごい空虚さを感じたから。
■発信される情報量はべらぼうに多い。しかし、それらが相互作用のなかで各々主題や焦点を持ち、そこに向かって収斂し、根をもち幹をもち葉を繁らせ、何かしらの有意義な「結実」へと昇華してゆく気配が、僕にはほとんど感じられなかった。
■新約聖書のなかにある「根無し草のようなもの」という言葉がふと思い浮かぶ、そんな世界。
■もしかしたら、広いSNS世界の中には、僕の知らぬいくつもの「根幹をもつ関係性」が存在するのかもしれない。いや、きっとあるに違いない。たまたま僕が、そうした環境に出会えなかっただけ、それに気付けなかっただけ、また、それに出会おうとSNS世界の深部まで突っ込んでいかなかっただけなのだろうとも思う。
■また、何よりも、情報発信や受信の当事者としての僕自身の心根の曖昧さやイヤらしさが、そうした出会いを阻害していたのかもしれない。問題はSNSの性質や存在の仕方にあるのではなく、あくまでも僕の姿勢と、僕とSNSとの間の相性にあるのだろう。
■そもそも、SNSに「根幹」や「結実」を求めること自体、僕の大いなる勘違いなのかもしれない。
■しかし、そうは言いつつ、どうも最近、SNSの中でなにかしらの良き社会的関係性との出会い(個人との出会いではない。現に、良き個人的な出会いはたくさんあった。)を得ようとあの空間をさまよっていても、まあ、言っちゃ悪いが、こりゃ時間と電気代の無駄だなぁと、そう思えてしまったのだ。
■PCの前に座る自分の姿に「根無し草」を見ないうちに、思い切ってその世界と決別しようと、そう思った次第。
■いやはや、長い日記に、さらに長い蛇足でした。