黒い山、水色の山

■家族と共に、3日間、札幌に出ていた。仕事と、私用と。先ほど自宅に戻ってきた。
■素敵な3日間だった。この日記になにを記したら良いか迷うくらい、いくつもの印象深い出来事や出会い、会話を経験した。21日に1歳の誕生日を迎えた長女のこと、22日のスライドトークでのこと、仕事での新しい出会いや、立ち寄った場所での友人・知人達との有意義な時間のこと…。いろいろ思い返される。
■でも…恐縮ながら…それらのことはさて置いても…えー…またしても…我が長女のことを書こうと思う。
■この日記における長女の登場頻度、つまり僕の親バカ度数の高さにはほとほとあきれてしまうばかりだ。でも、今日の帰路の道中、彼女と交わした会話は、この3日間のうちで一番深い印象を僕の中に残した。
■それは、なんのことはない、「山の見え方、言い表し方」についての、ほんの二言三言の会話だった。
■帰路、由仁町の国道を走行中、進行方向正面の山並みの奥に、全山に雪を頂いた夕張岳の姿が見えてきた。山好きの間では「花の名山」として名高い、標高1688mの秀峰だ。
■手前に居並ぶ低い山並みのほとんどが僅かにしか雪をかぶっておらず未だ”黒々”としていた分、すでに真っ白く雪化粧をした夕張岳がひときわ美しく見えた。
■そこで僕は、助手席の長女に「ほら、あれ、見てごらん。あの山、夕張岳ってんだよ。きれいだねぇ!手前の”黒い山”(山並み)の奥の方に、白く見えるっしょ?」と声をかけた。
■すると彼女からは、僕が期待していたのとは全然違う言葉が返ってきた。長女は、僕が指し示した方角をじっとみたあと、意外にも、僕をたしなめるような口調でこう言った。
■「ねー、おとーちゃん。いま”黒い山”って言ったしょ?でも、それ、間違ってるしょ。ほら、あれはァ、”水色の山”。黒くないでしょ!」。
■それは、全く正しい指摘だった。
■手前に見えていた低山帯は、日没直後の弱弱しい光のなか、青白い空気の遠く向こうに佇んでいた。光の屈折の加減か、大気成分の散光特性の故か、それは確かに、色彩としては「水色」と表現すべき色合いに染まっていて、いわゆる「青い山脈」であった。まさに長女の言うとおり、それは少なくとも「黒」なんかではなかった。
■この長女の何気ない”反論”に、僕は虚を衝かれ、ハッとし、そして、我が身を深く省みた。つまり、自分の思考や感性、その表出である表現行為がいかに「慣用的」「典型的」なものに依存してしまっているかを痛烈に感じざるを得なかった。
■たしかに、慣用的には、その山並みは明らかに”黒々”としていたと言い得るだろう。特に、真っ白な夕張岳の前でその”黒っぽさ”は際立っていた。なにしろ、白さの究極の対極は黒さに「決まっている」。
■また、実際にあの低山を実地で歩いてみれば、雪に覆われていないむき出しの土壌は無彩色の暗褐色であることに多分間違いは無いだろう。あの山の実際の姿が物理的には例えば「水色」などではありえず、限りなく”灰褐色~黒色系”であることは、数々の経験や知識のなかで、僕にとっては「分りきった」ことだ。
■だから僕は、何の迷いもなく”黒い山”と口にする事ができたのだ。
■しかし、長女の指摘により改めて見つめ直さざるを得なかったその山並みは、実際のところ、悲しいほどに美しい青さで僕の網膜に映っていた。
■「あなたの眼は、いったい、何を見、あなたの口は、いったい、何を言っているのですか?」長女の無邪気な返答が、その裏で、僕に問うていた。
■「典型」「常識」「通念」「経験則」。言わば大人になるために身につけてきたもろもろの作法や術が、いかに本来の身体感覚を鈍らせてしまっていることか…。そして、何気なく、そして悪気なく表出してしまう「正しい慣用表現」が、時として、物事が本来見られるべき姿にいかに色濃くフィルターを掛けてしまうことか…。
■多様な経験や知識から導きだされ身についた諸々の「型」「術」や、外来の「価値観」等々は、もちろん、ひとりの人が底深い世界に屹立しようとするときの大きな支えとなってくれるし、広い世界を渡るときの通行手形となる。また、混沌とした世界を自分の中に取り込み、すとんすとんと落とし込んでゆくためのプロセッサにもなる。
■大人になってゆく事の面白さ、醍醐味とは、その「型」や「術」、「観」を駆使しながら、目の前の世界を着実に自分のフィールドとしてゆくことにあるだろう。
■だが、それらがもつ分析・分類・咀嚼などの機能の利便性に無自覚に寄り掛かり、それに慣れてしまうと、いつしか、本来目指すべき世界の深さや広さ、混沌という名の豊かさそのものへの感受性が失われていってしまう。
■僕が娘の前で露呈してしまった「白に対する黒」というステレオタイプの発想とおもわず口をついて出た「黒い山」という表現は、僕にとっては、まさにその悪しき例だった。
■ここでもやはり、いつもの日記執筆時同様、「なにもそこまでコトをややこしく考えなくても…」という声が自分のうちから聞こえてくる。でも、むしろ、自分自身の身体感覚でコトを考えなくなること、考えなくても済むようになってしまうということの負の作用を、今回の一件は改めて指摘してくれたように思う。
■ふと、オーム真理教事件の背景を描いたドキュメンタリ映画『A』『A2』の監督・森達也氏の言葉「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」が思い浮かんだ。そう、白い夕張岳の”黒き前景”に過ぎないと思い込んでいた名も無き山並みの風景は、じつはその瞬間、豊かで美しい色彩をもっていた。5歳の娘の何気ない一言は、静かにそれを訴えていた。
■そして、先日見たNHK「プロフェッショナル」を思い出す。絵本作家・荒井良二氏が「宿命の敵=大人の自分」として言い表していたのは、まさにこのことなのだと合点。
■宿命的にすでに36歳の”大人”になってしまったこの自分が、物をどう見、聞き、そこから思い、表現するか、という事の「大事」を改めて考えさせられた。「こどもは本当に感性が豊かですからね!」なんて”常套句”に寄りかかって安楽せずに。