不定期日記

選択

今朝の北海道新聞朝刊の第一社会面。「着床前スクリーニング(PGS)」の道内施設での臨床研究が月内にも開始されるという記事。
「着床前スクリーニングとは」で検索
https://goo.gl/S22iYv
「不妊治療への福音」。「命の選別」。世論に賛否あり。
もし自分が当事者なら、どうするかなぁ、と、朝からずっと頭の片隅で考え続けています。悩まなくていいことに、いたずらに悩んでいます。
ぼくはこの医療技術が「苦しみ、痛み、悩める人にとっての福音」になるだろうと心の底から思えるのですが、他方で、この技術が拓いた可能性の中に倫理的な「課題」が存在することを認めないわけではありません。
生命の在り方に関わることだけに、ことの重大性が突きつけるものは、賛否双方ともに大きい。無条件にすんなりと「それは素晴らしい!」と100%絶賛できない自分がいます。
でも……自分が当事者だったら、どうする?
もし自分のパートナーが、もしくは(仮にぼくが産むことのできる性だとして)自分自身が心身ともに日夜不妊に悩み苦しんでいるとしたら、そして、その苦しみ・痛み・悩みの度合いによっては、そうした「課題」に自分なりの折り合いをつけ、この方法を選びとるかもしれません。
そう、結局は「状況に応じて、自分で選ぶ」しかないんだよなぁ。
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医学も含め、科学技術の発展は、新しい可能性を拓き、たくさんの選択肢を与えてくれます。そのこと自体は本当に(その多くは人間にとって)幸せなことです。
でも、選択できる道が増えれば増えるだけ、そのどれかを選びとり胸を張っていられる確かな意思(胆力とでも言おうか)が必要になるなぁと思います。
拡大解釈をすると、じつは、写真を撮ることも、常にその胆力を求めてきます。カメラを使った写真撮影なんて、突き詰めると「選んで切り取る」以外の何ものでもないのですから。(ことばを連ねることもそうですね。ぼくは本当に、詩人として生きている人々を尊敬しています。)
写真を撮っていても、また、このようにcontroversial(物議をかもす〜)な話題に触れるときも、度々ぼくは思うのです。
「人間は、(他の動植物同様)選択肢を選びとれる存在であると同時に、選択肢を生み出し続けられる存在でもあるし、また自らの選択に苦悩する(ことのできる)存在でもある。ああ、なんとメンドクセー生き物なんだろう」と。
メンドクセー、とは不謹慎ですね。しかし、まじめな実感です。
その面倒臭さをひとことで、かつ大げさに例えるならば、それは「業(ごう)」なのではないかと思っています。仏の道に生きる人からは「安っぽく例えるな!」と怒られそうですが……。
でも、やっぱり、業なんだよな、とぼくは思います。
なんだか最近の科学技術のものスゴイ進歩は、選択の悩みを深めるどころか、逆にもう、その人間の業さえもテクノロジーの力で霧消させてくれそうな勢いですね。
はっきり言って「選択のための胆力」なんてものは、ビッグデーターの解析技術が進めばもう不要ですよ。人間も、解析結果をもとにして「完全自動運転」して貰えばいいんです。VRゴーグルかぶって生きてきゃいいんです。
でもぼくは、個人的な嗜好として、そうしためんどくさい業を、ちゃんとナマナマしく煩わしいものとして、からだやこころのどこかに常にぶら下げて生きていきたいと思っています。もちろん、背負える限りにおいてですが。
実際ぼくは、ぼく自身のごくごく些細な美意識を満足させるために、麗しい森にずかずか踏み込んで、その度に足元の草や苔や微生物たちを踏みつけ痛めつけているような、業にまみれた人間です。
でも、できるなら、許される限り、都度その草や苔や微生物たちに詫びながらでも、それを続けていきたいと願っています。まだしばらく業を積み続けます。
しかし、これはもう「旧人類」確定ですね。淘汰の対象かもしれません。これも、軽口のようであって、半分はまじめな実感です。
(以上、中学生の作文のようですが、備忘録として記します)