朱に交われば紅くなる、を思う。ある環境に長く浴すれば、たとえ本人にその意思・意図はなかろうと、いつしかその環境がもつ「理」や「作法」は、個人の思考や身体に否応なく染み入ってくる。そのこと自体はなにも悪いことではないし、さらに言えば、全ての人があらゆる場合においてそれを常に自覚している必要も、ない。
だけれども、染み入ってきてしまった「理」や「作法」に必要以上に自己を明け渡してしまうと、ときに、その人が表出させる態度や、もっと気になるところでは、その人が吐くことばがとても軽くなってしまうように思える。
浴する環境がシステムとして強大、もしくは安楽でありすぎると、その中にいる個人の精神や身体は、きっと、無意識的に内へ内へと向かい、保身的傾向、現状維持的傾向へと傾きたがるものなのだろう。
そうなると、その個人から現れる出る態度や行動、特に「ことば」そのものや「論法」は、新たな関係構築を目指そうとする含意の豊かさ・量感(ベクトルとでもいえるだろうか)を失い、逆に、当たり障りのない堂々巡りの自己弁護ツールに堕してしまうように思える。
できれば外へなど向かいたくない…。その、ある意味では自我を持っていれば当然湧き起こってくるであろうかなり抗い難い欲求を、グイと押しとどめること。
外へ向かうこと。いま直ちに外へ向かわないまでも、また、思いを内へ巡らせつつも、外へ通ずる窓は開いておくということ。生身の自己の姿を外へとさらすことを、少なくとも、あきらめてしまわないこと。
それらの、少なからぬ”自己との対話や格闘”を必要とする外へ向けた自発的営為の有無が、特にことばの質感に与えてしまうであろう影響を思うのだ。
外との関係の中にあって”自己との対話”もしくは”格闘”を倦まずしている人たちがいる。それらの人たちが吐くことばというのは、聞くからに(読むからに)、耳や目、そしてこころに重たく響いて心地よい。例えそれが、虚飾のやさしさや演出された親しみやすさ、全方向的な配慮、流麗さ、論法の巧みさ、語彙の数量的な意味での豊富さ、既存の金言・格言などの一切をこれっぽちも備えていなくても。
かく偉そうに言う僕自身、かなり卑しい保身の作法を身に染み込ませていて、現に、それに甘んじている人間だ。できることなら、心身に染み渡ったその濁り汁を一滴残らず搾り出して、開かれていながらも重たいことばを、あたかも呼吸をするように、自然と表出させ得るようになりたいと思っている。ま、それがなかなかに難しいのだが…。(これが僕のようなものにでもすぐできてしまうのであれば、世に詩人は要らない)