長い日記兼備忘録(最後まで読む価値はあまり無いと思います)
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僕が勝手に「新得の父」と呼んでいる恩人Nさんから、チルド宅急便が届いた。素っ気ない段ボール箱にぺたんと貼られた宅配伝票には「内容:生肉」。
これは、シカだな。Nさんは鹿打ちをする。
箱を開けると、これまた素っ気ないスーパーレジ袋にどさっと放り込まれた獣の肉塊が二つ、ごろんごろんと入っていた。全部で4〜5キロはあるだろうか。もも肉かな。濃い赤身。やはりシカ肉らしい。
概ね「掃除」もしてある。ありがたい。そして、うれしい。
添え書きも何も入ってはいないが、たぶん、先日進呈した新刊のお礼なのだろう。不肖の“息子”としては、少々気を使わせてしまったことにちょっと恐縮するが、しかし、この「物々交換」がまた、うれしい。近所に住む妻の実家に一部お裾分けをした。
今日の午前中は、肉の処理をした。脂身を丁寧に取る。そのまま食べても、その獣臭さがまた野趣に富んでいてなかなかオツなのだけど、最近娘たちが肉を食う時に「硬い」だの「パサパサしてる」だの「臭い」だのといっちょまえに注文をつけるので、ちょっと手をかける。
脂を削ぎ落としながら、塊肉を小さなブロックに切り分けてゆく。
同じ「もも肉」といっても、こうしてかたまり肉を丁寧に見れば、その中でいくつかの小部位に分かれていることがよく解る。
なるほど、「大腿」という、シカにとっての最重要な動力機関は、いくつかの働き方が異なる筋肉群の高密度な集合体として出来上がっているのだ、と解る。
ぼくは解剖学にちゃんと触れたことがないので、それぞれの小部位が、どんな時に、どんな働きをし、結果、どのような動きをシカという生き物に可能にさせる筋繊維なのか、ぼくにはちっともわからない。
それでも、そのみっちりとして重厚な質感・量感に直に触れると、肉というものが本来「動物を動物たらしめるための重要なしくみ」であって、かつそれが非常に精巧に組み上げられたものであり、その一筋一筋にはきっとそれぞれに他に替えられない役割が与えられているだろうことが、なんとなくではあるけれど、手触りとして、体感的に伝わってくる。
ぼくの身近には、生き様、生活信条として一切肉を食わない人が何人もいるが、ぼくは食う。結構、食う。食うけれども、それでもやはり、肉を軽んじてはいけないのだな、と思った。じっさい、肉は、軽くない。我々肉なるものは、アイデンテティに直接関わる事柄として、肉の肉なることを軽く見たり、低く見たりしてはいけない。
さて、肉が腐らぬうちに、とっとと切り分け作業を進めよう。
小部位同士は概ね白いスジによって隔てられている。そのスジを目当てに指を入れてブロックとブロックの間を少し開き、片方のブロックを削ぎ剥がすように、包丁の先をすっすっと走らせてスジを断ってゆく。
その際、できるだけ肉そのものを切らないように注意する。不思議なもので、無意識のうちに「キレイに切り分けなければ」という気持ちが働いている。
が、スジが腱のように固く収束する部分などは、頭で思い描いたようには気持ちよくスムーズに切れてくれない。つい余計な力が入り、切らなくてもよい肉そのものにまで切り目が入ってしまう。
包丁が悪いのか、腕が悪いのか−−。うーん、たぶんその両方だ。
もちろん「不慣れ」というのが最大の要因なのだろうが、しかし、刃(道具)も、それを扱う手(技)も、日頃からちゃんと研ぎ澄ましておかなければ、切るべきもの、ちゃんと切らねばならぬもの、丁寧にとりくまなければならないものが現れたとき、それに対して美しい仕事ができないものだ。なるほど。目の前のゴロンとした肉塊に、反省を迫られる。
そうこうしながらなんとか小部位ごとに切り分けた肉は、ステーキ用、塩茹で用、シチューやカレー用、焼肉用などにさらに分割した。そして、煮るべきものは圧力鍋で煮、すぐに食べないものはストックバッグに小分けにし、冷凍保存した。
不本意ながら不手際ゆえに発生させてしまった細切れ肉は、ちょうど正午になったこともあり、生姜と一緒にちゃっちゃと炒めて醤油で甘辛く味をつけ、青菜のおひたしを添え、白米の上にざっと乗せ、食べた。
で、今夜。
我が家の夕食は、ブッ太い恵方巻き+肉汁滴るシカ肉ステーキという、何だかビミョウな取り合わせの献立になった。
が、じつに美味しく、我が家としては滅多になく贅沢であり、また、種々の有難さを実感する晩餐となった。娘たちも口を揃えて「うまい」と言った。総じて、じつにうれしい一日になった。
これで、明日も一日、元気に生きていけるといい。
追記
そういえば、今夜のステーキに添えたレモンは、広島で世話になっているSさんからつい先日自家栽培の米と一緒に送ってもらったものだった。素晴らしき哉、貰い物人生。今晩こうして私を私たらしめているこの私の肉も血も骨も思考も、きっと、私だけのものでは無い。「私を私たらしめることができるのは私だけなのだ」というある種の中毒的錯覚は、決して私をgreatにはしないだろう。