不定期日記

『智恵子抄』

久々の更新です。この間いろいろあったのですが、いろいろありすぎて、放置しているうちに見事に機を逸しました…。
きょうは、読書感想をひとりごち。
書棚にずっと置いてあった新潮文庫版『智恵子抄』を読みました。言わずと知れた高村光太郎の代表的詩集。冒頭の一遍目からどうも引っかかる感覚があって、ずっと読み進めることなく迂回していたのですが、ついに全編(草野心平による解説も含め)読み終えました。
正直に言うと、ようやく読み終えたという一種の満足感とは別に、ごまかしようのない後味の悪さを覚えています…。世に少なくないであろう本書のファン、高村光太郎ファン、もしくは「高村光太郎によって描かれた智恵子さん」ファンには、大変申し訳ないのですが…。
確かに、この詩集は、世に類い稀なる「愛の詩集」だとは思うし、また、一人の芸術家による渾身の「美の表出」だとも思います。凡人には作り得ぬ「壮絶な作品」だと思います。
ただ、残念ながら僕には、この詩集に収められた一片一片の詩、または詩人自身が巻末に添えた「智恵子の半生」などの解説文を読むにつけ、智恵子さんという人間が背負わされたもの(“智恵子像”とでもいいましょうか…)が何とも言えず息苦しくて、なんか、しまいには、故人である智恵子さんがかわいそうになってしまいました。
「智恵子さん、どうぞいまは何にも煩わされることなく、あなたはあなたとして安らかに眠ってね…」と声をかけたくなります。
『智恵子抄』の読み方としては、ひねくれた、残念な読み方なのかもしれません。もっと純粋に、それこそ高村光太郎が描きだした「光太郎と智恵子の愛の純粋さ」にこそ心打たれて感動すべきなのかもしれません。
でも……でした。
で、これを契機に、僕は、今更ながら、20年前に僕の個人史上に起こったある出来事を思い返し、人の死と神格化について思いを巡らせています。例によって、自戒の思いを抱きながら。