不定期日記

幸せなら 手を…叩く?

連日の投稿に、「ああ、小寺はいまよっぽど閑散期なのだな…」と思われるかもしませんが、
またも、大いに下らない投稿を一発。お暇ならどうぞ。
(本当は、先週の撮影中に思い巡らしたことなども、あれこれあるのですけど…)
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♪ 幸せなら 手を叩こう(ぱんぱん)
 幸せなら 手を叩こう(ぱんぱん)
 幸せなら 態度で示そうよう
 ほら みんなで手を 叩こう(ぱんぱん)
今まで、全く疑問に思ったことはなかったけれど、
今夜、急に、馴れ親しんだこの歌の歌詞や、
この歌に描かれている「状況」のようなものが、無性に気になりだしました。
いま、心の中に「なぜ?」が渦巻いています。
つまり、こういうことです。
・幸せだと、どうして私は手を叩くように促されるのだろう。
・幸せだと、どうして私はそれを態度で示すように促されるのだろう。
そして、
・「幸せだ。だから手を叩く。」という「気持ち→態度」の表現を、
 どうして私は「みんなで」行うように促されるのだろう。
考えてみれば不思議な歌です。
因果関係や、動機と行動との関連性が、どうもよくわからない…。(笑)
まあ、可愛いらしくたわいない童謡です。
童謡なんて、いやそもそも歌の歌詞なんて、大概そんなもんですよね。
理屈が通らずとも、全然いいんです。
僕だって、この歌を子どもたちと唱和する時には、
こんな下らん屁理屈などひとつも言わず、
気持ちを込めて元気に「ぱんぱん」しますとも。
実際、楽しくて、体も動いて、気持ちのいい歌です。ぱんぱん!
では、なぜ急にそんなく〜だらない疑問が首をもたげてきたのかというと、
ついさっき、以下ようなニュースを読んだからなのです。
◆岐阜大が国歌斉唱しない方針 馳文科相「恥ずかしい」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160221-00000038-asahi-pol

(Yahoo!ニュース)
このニュースが伝える「状況」においては、さしずめ、
♪ 感謝するなら 歌 うたおう(○〜△〜□〜)
 恩義を感じるなら 歌 うたおう(○〜△〜□〜)
 有り難いと思ってるなら 態度で示そうよ
 ほら みんなで あの歌 うたおう(○〜△〜□〜)
 (歌わないのは、人として恥ずかしいぞ!)
…というようなことなのでしょう。
(すみません、替え歌としてはえらい字余りですけれど)
なるほど。
でも、うーん、ごめんなさい、僕にとっては、
これもやっぱり大いに「なぞ」です。
・感謝の表現や恩に報いる表現、もしくは、
 庇護してくれている共同体への帰属意識を表明するための表現が、なぜ「歌をうたう」ことなのか?
・しかも、なぜ「“あの歌”限定」なのか?
・なぜ「“あの歌”を歌うこと(+“あの旗”を拝すること)が、求められる唯一の”態度”」とされるのか?
(なぜ、必死にそうしたがるのか? なぜ別の選択肢を取ろうとすることを頑なに否定するのか?)
「オリンピックとか国際大会で、よその国は“みんな”やってるだろ!?」とか、
「この国では“みんな”昔からそうやってきただろ?!」とか、
もしくは「これはもう“みんな”で決めたルールだろ!」とか、
詭弁や事実誤認や既成事実を根拠にいろいろ理由をつけられても、
やっぱり、わからないものはわからない。
悪いことに、これに関しては、
極力予断を排し、偏見を排し、努めて冷静かつフラットにものを考えようとすればするほど、
なおさらわけがわからなくなって、困ります…。
ほんと、摩訶不思議。
毎年この時期は、こうして、頭の中がよくわからないことだらけになるのです。
いっそ余計なことには目と心を閉ざし、
どこまでも爽やかで善良で幸せ感満載な「理想の森の物語」だけを夢想していれば、
その方がいいのかもしれませんが…。
しかし、この件についてはどうしても、
ただ無邪気に「ぱんぱん!」では、済まないのです。
追記:
件のニュースに関して、この種の案件ならではの点、
つまり「らしさ」を強く感じるのは、
馳大臣の事態解釈の落としどころが「恥」であるところです。
為政者が大衆に向けて「恥」を公言し始めるとき、
それに対して大衆がどういう態度をとるべきかについては、
ちょうど70年ほど前の「事例」から学ぶことができるような気がします。
ちょっと大袈裟かもしれませんが、
しかし、決して無関係ではないと僕は思っています。
馳大臣が「教育」を司る役所の長であることが、
なおさらに「らしさ」を感じさせるのかもしれません。
蛇足ながら。