不定期日記

本の紹介『奥入瀬自然誌博物館』

本の紹介!
『奥入瀬自然誌博物館』(NPO法人奥入瀬自然観光自然研究会)
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http://www.oiken.org/

日本有数の自然景勝地として名高い青森県・奥入瀬渓流。その魅力を存分に伝える書籍を、本書の著者である河井大輔さんから送っていただきました。ナチュラリスト・編集者・写真家・文筆家などじつに多様なカオをもつ河井さんとは、札幌の出版社Naturallyが刊行するネイチャーグラフ誌『faura』の立ち上げからのご縁で、河井さんが本拠地を十和田・奥入瀬に移されてからも何度か彼の地でお会いしたりしています。
今回紹介するこの本は、河井さんが属する「NPO法人奥入瀬自然観光自然研究会」が発行する、奥入瀬渓谷周辺の「自然ガイドブック」と位置付けられる書籍です。しかし、その内容たるや、そんじょそこらのヤワな「ガイドブック」が尻尾を巻いて逃げ出す、猛烈な密度と質を携えています。
まず、発刊のコンセプトからして、単なる「観光案内書」とはちょっと趣きがちがっています。本のタイトルとして記された通り、奥入瀬渓流一体を一つの「自然誌博物館」と見なし、奥入瀬の自然(動植物や気候風土)が持つ魅力や特徴を自然科学の眼で掘り下げることを通してより深く愉しもう・味わおう、というのがこの本の主眼です。
苔むした岩肌のあいだを涼やかに流れ下る奥入瀬の清流。その河畔に繁茂する緑濃い木々。林床に密かに咲く花々。時折現れるカモシカなどの動物たち。美しい声色で鳴き交わす鳥たち−−。
「奥入瀬」という地域の優良な自然生態系を成立させている樹木や草本、コケ、キノコ、動物、昆虫、地勢、または地域の文化史までもを、一つ一つについて章立てし、科学的解説や専門家(フィールドワーカー)ならではのユニークな知見紹介を加えていくのが本書です。
読んでいると、まさにどこかの博物館で学芸員からギャラリートーク(ミュージアムトーク)を聞きながらゆったりと展示観覧しているような感覚になってきます。良質な知的満足感を感じながら読み進めることができました。
ところで、上述のように「科学的解説」「知的満足」などと書いてしまうと、なんだか堅苦しく小難しい本なのではないかと警戒されてしまうかもしれませんが、そこは心配ご無用です。
本書に書かれている文章は、自然科学について真っさらな素人でも楽しく親しみを持ちながら読み進めて行ける語り口でありながら、ある程度専門的に自然と向き合いたい人にとっても十分納得と刺激を得られる内容、という、じつに絶妙なバランスに仕立てられています。著者の河井さんが彼の地で観光客向けの自然ツアーガイドをしている経験が、そうした意味でも十分に発揮されています。
なにより、全編に散りばめられた写真(風景、動植物)が、美しい!本の構成やデザインが持つある種の柔らかさも相まって、写真によるビジュアル効果が非常に印象的に活かされています。
沢音がこちらにも沁み入ってくるような霧の清流。匂い立つような早春のブナ林の芽吹き。そこに生きる草、花、コケ、キノコ、鳥、虫…。それらを写真として紹介する際、一般に科学書やガイドブックにもとめられる「図鑑的」な写真は敢えてごく控えめに使われていて、むしろ、撮影者の自然に向き合う姿勢・眼差し・価値観がダイレクトに感じられるような印象的な写真が、これでもか!と言わんばかりに「自然の美」を伝えてきます。
光と影がおりなす立体感の中で、被写体となった事物一つ一つの生命感や存在感がぐっと象徴的に浮き立ってくるような写真たち。また、フツーのネイチャーカメラマンではたぶん絶対にセレクトしない(できない)ような被写体たち。それら著者選りすぐりの写真を眺めているだけでも、じつに充実した「擬似森林逍遥体験」を得られます。
(個人的には、たとえば、「シダ」の章の大事な扉絵に“あんな”トクサの写真を配してそこに“あんな”キャプションをつけたり、タヌキノチャブクロの“あんな”写真を贅沢に見開きで使うなんて、最大限の褒め言葉として、著者に「あなた、何考えていらっしゃる?!」と伝えたい。笑。なお、“あんな”は、ぜひ本書でご確認を。)
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先述の通り、奥入瀬渓流といえば、大正時代の昔からすでに国内屈指の風光明媚な景勝地として名高く、ゆえに、極言すれば「もう今更あらたな“ガイド本”を出す必要もないだろう」くらいの観光地です。十和田湖や八甲田近辺も含んだエリアには、景観的な「美」や自然に抱かれる「心地よさ」を求めて、観光シーズンともなれば黙っていても大量の観光客がバスやマイカーを連ねて訪ねてくることでしょう。
しかし、本書は(本書を発行しようと志した人たちは)、そうした既成の景勝地観光の作法の中で「見過ごされてきた」ものの中に、奥入瀬のもつ真の魅力や観光地としてのポテンシャルを見出し、それらを、まだ奥入瀬の真の魅力を知らない人々に丁寧に手渡そうと試みています。
確かに、観光バスやマイカーの車窓から見やる奥入瀬の景観は、さらりと流し見をするだけでも、もうそれだけで十分に美しい。しかし、景勝地を「点と点を繋ぐように」移動するような従来型の慣行的な観光作法の中では、「では、その景観がそうも美しく、またこんなにも心地よいものとして感じられるのは、なぜなのか?」とか「この地域がわたしたちにとって貴重なものとみなされ得るのはなぜなのか?」と問われることはほとんどありません。
それは多分、奥入瀬地域が放つ魅力というものが、そんな小理屈を伴わなくとも(つまり、ただ流し観るだけでも)訪れる人を十分に魅了するということの裏返しなのでしょう。しかし、この本の発行者たちは、そうした「ただ見流すだけの観光」で奥入瀬に触れるのは「じつにモッタイナイ!」と言います。
奥入瀬の景観がこんなにも美しく心地よいのには、ちゃんと訳(理由)がある。そして、その理由をつぶさに知ればなおさらに、この奥入瀬での観光体験から得られる感動が豊かで味わい深いものになる。ぜひこの奥入瀬が持つ深く豊かな潜在的な魅力に触れて欲しい。…そんな発行者たちの思い・実感が、本書からはひしひしと伝わってきます。
その「熱意」に触れた時、僕には、もしかしたらこのガイドブックを通して発行者たちが「ガイド(案内)」をしようと試みているのは、奥入瀬という「場所」だけではなく、その場所を訪ねる人たちの「場との向き合い方の有り様」であり、また、もしかしたらそれ以上に、その場所に人を呼び込もうとする当地当事者たちの「自らの地域との向き合い方」なのかもしれないな、とも感じられました。
いわゆる「エコツーリズム」の考え方に基づいて地域の魅力を発信しようという取り組みは、いま全国各地で芽生えているようです。その流れの中にあって、今回この本の発行ように、「自らが推す地域の魅力を丁寧かつ客観的に解きほぐす」という明確な目的意識のもと、緻密な構成でひとつの「形」にまとめあげたという事例は、非常に良い先例となるのではないでしょうか。単に「奥入瀬」または「自然景勝地観光」というキーワードのみでなく、そうしたエコツーリズム全般の観点からも参考になることが、本書には秘められていそうです。
この本の、カバーを剥いだ本体の表紙には、英文での署名タイトルに添えて、つぎのような一言がひそやかに添えられています。とても示唆に富むことばのように感じられます。
Pause… Oirase speaks to you.
(立ち止まってみてください。奥入瀬があなたに語りかけてきます。)