不定期日記

歩け歩け

撮影のため、ザラメ雪に覆われたいつもの森を歩いているが、ああ…撮るものがない…。
いや、僕に撮られるのを待っているものは、そこここに沢山居るのだろうが、それを意識下に捉えるだけの感覚が僕の中にまだ準備されていないのだ
…などと、ロマンスならぬナルシシズムが有り余ぁるくらい、ああ…撮るものがない。とほほ。
こういう状態の時には、僕は「今日は、歩け歩け大会だ!」と決めて、ひたすら健康増進、抗メタボ対策に励むことにしている。えっさほいさ。
額に汗を滲ませながら歩いていると、倒れたトドマツの大径木に出会った。根元1〜2mほどのところでバッキリと折れ、全長15mくらいはありそうな長い幹がゴロンと横たわっている。風倒木かな。胸高直径80cmくらいはありそうな立派な木だ。倒れてからそう日は経っていないようだ。
雪の上に投げ出された枝先には、まだ緑の葉がたくさん付いているので、完全に枯死していたわけではないだろう。でも、幹の中ほどには大きな亀裂とウロがあって、そこからは、腐朽菌に冒された茶褐色の材の腐れが見えている。太く頑丈に見えても、中は衰え弱っていたのだ。
ある風の強い夜、きゅうー、きゅうー、ぎぎぎーっと切なげな音を立てて幹が軋み、ついに、ざざざ、ばきばきと周囲の木々を巻き添えにしながらうち倒れるトドマツ−−。この木の最期の様子をちょっと想像してみた。
50年、100年という木の生命がこうして終わってしまうのは、なんだかもったいなく、悲しいような気にもなる。
しかし一方で、こうした過熟木が、たとえばキツツキによって穴を開けられ、そこから腐朽菌が侵入して腐り、強い風にあおられ、いつしか倒れて地に伏すことは、「森の更新」という観点からは喜ぶべきことなのかもしれない。
これまでこの巨木が独り占めしていた陽光は、いまや、その樹影下で芽生えと伸長の時を永らく待ちわびていた種子や稚樹のものとなった。それら新しいものたちにとっての「50年、100年」が、いまスタートしたのだ。嘆くどころか、これは祝福に値する出来事なのかもしれない。森はそのようにして不断に作り変えられてゆくのだから。
倒れたトドマツの折れ口の部分には、まだ腐れの入っていない白太の材が荒々しくむき出しなっていた。その一部に、年輪にそってゆるやかに湾曲した材面が綺麗につるんと露出している部分があった。そう、バームクーヘンの層を薄くはがしたみたい。ちょうど木目に沿って「へがれ」たかたちだ。
材は、ごく薄淡いクリーム色。でも、見る角度を変えると、その表面はわずかながらに陽光を照り返し、どこか金属のようにさえも見えてくる。触ると、じつに気持ちいい肌触り。なんてきめ細かな木繊維。冷たく滑らかで、それでいてどことなく暖かで柔らかい。なんだか指先が吸いつくようだ。
この“すべすべ”が年輪として蓄財されたのは、いったい何年前のことなのだろう。そのころ、僕はすでにこの世に生を受けていたのかな…? あれこれ想像してみると楽しい。
白い材に鼻を近づけ、深く息を吸い込んでみた。ああ、なんてさわやかな香りだろう!
まあ、その匂いそのものは、言ってみれば、材木屋さんや製材所に入った時のあの匂い。新築現場のあの匂い。ホームセンターの2×4売り場のあの匂い。じつにありふれた匂いだ。
でも、何かが違う。なんだろう。ずっと嗅ぎ続けていたいぞ。もうこれだけで、僕はトドマツに向け「ありがとう!」と言いたくなる。
ただ、残念ながら、香りは写真に写らない…。
ならばせめて「手触り」を伝え得る写真を撮ろうと思うも、ごめんトドマツ、あなた、全体的にちょっと被写体としてのチャームに乏しいのだ…。選り好みして、ほんと、ごめんよ…。
ああ…やっぱり…撮るものがない…。
トドマツに心の奥で詫びながら、残雪の残る小川沿いをさらにザクザク歩いてゆけば、あ、あった。今年もここに、ヒグマの足跡。
毎年この川っぷちはヒグマの通り道になる。ヒグマのいのちの営みが今年も変わらずこの場所に巡り続けていることを嬉しく思いつつも、僕は、腰にぶら下げた熊よけスプレーのホルスターにそっと手を掛け、静かに息を整える。
でも、この足跡、少し古いものだな。雪の融け具合からいって、ヒグマが歩いてからもう1週間は経っているだろうか。
ちょっと古すぎて、ああ…写真に撮るほどのものでない…。
今ようやくフキノトウがちょこちょこと顔を出し始めた程度のこの春浅い森。冬眠明けの腹ぺこクマは、何を思い、どこへ向かって歩いて行ったのだろう−−。
やっぱり彼(彼女)も「ああ…採るものがない…」とボヤいていたりするのかな。それとも、もうすでに何かステキなもの、みつけたかな。
こちら人間は、もう少し歩いてみます。