不定期日記

歴史

今日午前中は、僕が所属するNPO法人の仕事で役場へ。
弊NPOが町から運用をまかされているまちづくり助成金制度の、
助成先団体による事業報告会に参加しました。
事業のご報告をいただいたのは、
芽室町の歴史に関する学習や史跡の検分などを行う市民団体。
60代、70代の方々を中心に、いつも本当に精力的に活動されています。
元気いっぱいなレディース&ジェントルメンです。
今年度も、様々な学習活動を通して広めた見聞を活用し、
地域の歴史マップづくりや町史の見直し作業を進めるなど、
意義深い事業を実施してくださいました。
僕は、恥ずかしながらそのNPOの“名ばかり代表”を仰せつかっているので、
その助成事業が妥当かつ有効に実施されたかを審査・吟味する立場でお話を伺いました。
報告をよくよく伺うほどに、
ああ、小さな地域とはいえどもやはり歴史をよく知る努力をすることは
とても大切で貴い活動だなぁと、深く教えられます。
また、事業成果のなかには、単に地域の社会教育機会の充実効果だけにとどまらず、
今後の地域の賑わい創出や新たな文化事業創出のヒントになりそうなキーワードもたくさん。
まさに、これぞ文字通り「温故知新」です。
先日のブログにも書いた通り、僕は、個人的には、
これからの時代は「ローカルである」ということを
観念的にも実質的にもいかに大切にしてゆけるかが、
地域としてもまた個人としても、
生きて行く上でのキモになってゆくだろうと思っています。
それを踏まえつつ新しい時代に即したコミュニティーのあり方、
新しい時代に即した個々人の生き方をこれから再構築していく際には、
やはり「足元の歴史」という土台をはずれたところで物事を進めては、
ことはあまりいいようにはいかないだろうなぁ、と思います。
森で例えれば、森に立つ一本の若木が、
時折打ちつける大風にも負けることなく健やかにその場所で立ち続けるためには、
いわずもがな、
広く深く根を張り巡らすことのできる確かな「土壌」があることが必須の条件です。
森における土壌とは、過去に生きた生物や風化した無機物の厚い蓄積、
つまり、いのちと周辺環境の歴史そのものです。
さらにいえば、これもいわずもがなですが、
その若木が生きていくためには、
その若木以外の大小様々な生物たちが、様々な生き様を通して、
たとえば栄養環境や繁殖環境を相互補完しあったり、
気候的・物理的リスクを上手く分散したりしながら、
他者同士で共だって、その場所で、
現在進行形の“いのちの歴史”をダイナミックに更新していく必要があります。
いのちの歴史は必ずや古くなります。
そして必ずや新しいいのちに覆いつくされ、
古いものは深いところへと隠されてゆきます。
でも、それも含めて、森のいのちの豊かさなのだろうなぁ、と思います。
森の豊かさは、古くなることで厚みを増してゆく土壌の豊かさでもあるのだと思います。
では、ヒトであるわたしやわたしと共に生きていく者たちを、
大風にも大波にも負けずしっかりと立たしめ続ける「土壌」は、どこにあるのか。
もしかしたら、
昨今のようなボーダーレス(ボーダーどころかすでに“実体レス”ですらある…)で、
かつ即時反射応答型の“時流キャッチアップ要求”社会では、
それを「ここではないどこか遠く」、
そして「今ではない未来」に積極的に求めたほうがよいのかもしれません。
まっさらな新天地を必要とするいのちは、時代がどうであれ、常に在ります。
ましてや、私たちは、宿命的に「動物」です。
でも、案外、じっと立ち止まって、自分の足元をちょっちょっと掘ってみたら…。
あら。その土壌の、思いのほか深いこと深いこと。
そしてその(わたしにとって)豊かなこと……となるかもしれません。
そのときに、もしも共だって足元を掘ってくれる仲間がそばにいれば、
なおさら深く掘ることだってできるかもしれません。
…と、そんなことを考えた役場でのひと時でした。
なんだか、とても良いひと時でした。