不定期日記

湧く

昨日、児童出版社「童心社」の定期広報誌『母のひろば』624号が届きました。
毎号、作家やアーティストや研究者など様々な方が寄せる巻頭言を楽しみにしています。
http://www.doshinsha.co.jp/hahanohiroba/index.html

今号の巻頭言は、落語家の桂文我さん。
三重県の山間部での「田舎暮らし」を20年続けるなかで文我さんが感じた
“不便さに感じる有難さ”について書かれていました。
東京や大阪などの大都市圏から離れて暮らすのは、
仕事の上では「誠に不利」で「利便性を考えると難儀なことも多い」のだけれど、
「その分、工夫をすることも増えた」と。
そして、自然を感じながら暮らすことで、
「生きている実感」「四季と共に生きている」思いに包まれている、と。
以下、結びの部分をそのまま引用。
 「昨今、利便性ばかり追求し、
 人間の頭脳を働かせるより、コンピューターに頼ることが多くなったため、
 本来、人間が持っている智慧(ちえ)が湧かなくなったのではないでしょうか?
 知識を吸収する頭より、智慧が湧く頭を作り出さなくては、
 人間生活は虚しいモノになるような気がします。
 そのように考えると、子どもに不便さを与えることが、今後の課題かもしれません。」
              ーー桂文我「不便は有難い」より(母のひろば624号/童心社)
いま僕(小寺)が住んでいるのは、
北海道では中規模町村の市街地なので、
文我さんのような山間部での暮らし環境とは幾分違う状況だとは思いますが、
このエッセイ、共感すべきところが多いです。
自然を感じる暮らしの有り難さ、という部分もそうですが、
じつは、最後段の「不便さをどう子どもに与えるか」も、まさにそう。
ウチも、まさにいま
「我が子に対し、どのようにして“智慧”につながる不便さを与えたらよいか」について、
夫婦共々、悩みの中にあります。
まあ、一番深く悩んでいるのは、思春期真っ只中の我が娘本人ではあるのですが…。
いま、子も、親も、それぞれに踏ん張りどころです。
ところで、知識を「吸収」することに対比して、智慧を「湧く」と書かれているのが、
いいですねー。すごく素敵な語感。
ちょっとしたことですが、僕、この表現、好きですね。
僕は思うのですが、僕も含め昨今の人間の「頭」は、智慧を湧かせる能力どころか、
知識を吸収する機能さえすでに放棄し始めているのではないかと、心配になることがあります。
知識を、いや知識どころか「経験」でさえも、
自己の身体内に自分のものとして蓄えておく能力など
じつはもはや必要とされていないのではないでしょうか。
「どこかに外部記録されている既存の知識や経験を、最短時間で効率よく引き出す技術や環境」を
身近に備えていることの方が、いまを生き抜く条件としてはより重要視されそうな世相です。
以前、あるドキュメンタリー番組内で、映画監督・宮崎駿氏が、アニメ映画業界の現状について
「いまの若い連中は、とにかく知識がない。ものを知らない」
と憤るように嘆いていたのを思い出します。
何かが頭の中に「湧く」前提として、
たっぷり「吸収」しておくことが必要だ、ということなのかもしれません。
この宮崎さんの言葉にも「そうだよなぁ」と思わされます。
しかし一方で、たとえば宮崎さんや文我さんのように
「クリエーター」や「イノベーター」や「表現者」として生きる方法をもし選ばないとすれば、
また田舎暮らしなど生活上の不便さを伴う暮らしをしないのであれば、
もしかしたら、そうした「知ること」や「智慧を湧かせること」を重要視する価値観ってのは、
すでにカビ臭い前世代的なものに過ぎないのではないか…と考えないでもないです。
「だって、もうそういう時代じゃん。
知識も経験も、困った時の知恵もヒントも、人と人とのつながりも、
みんな“雲”の中から指先ひとつで呼び出せばいいじゃん。
世の中みんなで、そうなるようにしてきたんじゃん。」
と言われたら、反論できる自信がない。
ただ、僕は、たとえ「これだから“昭和”は…。ああウザ!」と疎まれようとも、
自分の頭の中や暮らしの中で、自分に根をもつ何かがムクムクにょきにょき「湧いてくる」生き方で
これからもやっていきたいなぁ。たのしいもの。