朝食をとりながら、不意に意識が変な方へ向いてしまった。コロナで変調した生活の中ですっかり頭脳が惚けてヘンになったのだろう。いや元からヘンだよね。
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朝の食卓。目の前に並ぶ物品。
箸、スプーン、フォーク、皿、茶碗、コップ、密閉保存容器、ビン、などなど。それらを乗せた木製食卓。
物、物、物、たくさんの物が、普段の意識の外側から、唐突に、おかしな存在感を持ってぞろぞろとぼくの目に飛び込んできた。おや、なんだろう、この感覚。
そして思った。ぼくが少なくとも午前中にわたって快く生きて活動するための心身の栄養摂取のために、ただそれだけのために、ずいぶんとたくさんの物品が準備され、用いられるのだなぁ。
ああ、なんとたくさんの–––––
あたりまえのことだが、それらの物は、ただ自然から取ってきたありのままの物ではない。
箸や食卓は木材を加工して作られている。皿は粘土、スプーンやフォークは金属、コップやビンはガラス、保存容器はプラスチック(石油)に人手が加えられてできている。
しかもそのそれぞれには、必ずや、何らかの造形加工と、場合によっては絵付けや彩色という加工が施されている。
ああ、なんとたくさんの–––––
そして、例えばその、多分機械動力によってこねあげられた粘土がガスか電気かに由来する熱エネルギーで焼かれた絵付け皿という物品の上に、拙宅の家屋の外に設置された鉄製ガスタンクからビニルホースを介して供給されるプロパンガスを燃料としたスチール製ガスコンロが放つ熱エネルギーによって鉄フライパンの上で加熱調理加工された「料理」という物品が、そこそこに美しく盛り付けられて並んでいる。
で、ぼくはその切れ端を箸で一つ摘み、小さく開けた己の口に運びながら、惚けた頭で思う。
ああ、おれって、ニンゲンって、なんとたくさんの–––––
木製の食卓の上には、主にプラスチックと金属とからできたラジオが置かれている。今朝もまたどこか遠くの放送局の鉄塔から放たれた電波によってもたらされるニュースが流れていて、解説員が「EU内における南北の経済格差が表面化しており–––––」とかなんとか喋っていた。
それはもちろん、人間の思いや考え、置かれた状況の伝達と相互理解を確かなものにするために構造化加工された音声であるところの「言葉」に依って、だ。
ふと考えてしまう。このニュース放送で、ぼくは、少なくとも午前中にわたって快く生きるための情報摂取ができた……のかな–––––?
そして、さらに考えた。その「考える」という行為すらも、なんだ、全面的に「言葉」に依っているじゃないか、なんとたくさんの。
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妻が、陶製の湯のみに茶をいれてくれた。「はい、どうぞ」。木製食卓がコトリと小さな音を立てる。
ぼくは、言葉を返す。「はい、ありがとう」。
そしてずずっと茶をすすると、傍の、紙でこさえられた“今朝の朝刊”という物品を手に取り、第1面に目を落とす。
ただちに、黒いインクでくっきり刻まれた「賭けマージャン」という言葉がぼくの目に飛び込んできた。でもそれは、不意なことでも何でもなかった。
ぼくはもう一度、小さく開いた口に湯のみを押し当て、ずずっと茶をすすった。
窓辺のFFストーブの上、素っ気ないガラス瓶に素っ気なく挿されたチューリップが、ああ、今朝はなおさら美しい。ただただ素っ気なく、正面から日の丸構図で撮った。