不定期日記

改めるべきこと

東京五輪組織委会長・森喜朗氏の発言と、それを生じさせた環境や社会背景に女性差別という「非」があった。その非なる状態を是なる状態(差別で苦しむ人が一人でもいなくなる状態)へと転じてゆくためには、何かを〈改め〉ていかなければならない。
 
では、何を改めたらいい? 何を改めさせたらいい?
 
森氏の役職や立場か。彼の思想信条や無知や鈍感さや“頭の良し悪し”か。
 
東京五輪の実施計画か。大会収支のソロバン勘定か。国際社会におけるニッポンの悪印象か。下落しそうな国益か。ガバナンス不全を露呈した五輪組織委員会や政府や自民党の体質か。
 
それとも、二階氏の不愉快な態度か。
 
何を改めたらいい。細かく挙げていけばいろいろある。
 
でも、ぼくは、いま最優先で改めるべきは、「わたし自身」なのだとおもう。
 
旧態依然としたニッポンの女性蔑視文化/男優位社会が根強く続いてゆく様子を、どこかで見て見ぬ振りをしていた自分自身を、まず改める。
 
きっと、そこが決定的に改まらない限りは、上記した種々のことがらの「改善」は、本当の意味では意義をもたないのではないか。そう思った。
 
今回の件は、紛れもなく「森さんの問題」であり「五輪の問題」であり、もちろん「ニッポン社会」が抱える由々しき問題であるけれど、それ以前に、これは「わたしの問題」なのだといま改めて認識した。
 
安保法制、森カケ桜、近いところでは学術会議の諸々の問題も、同じ。原発をはじめとする核エネルギー政策も、同じ。
 
〈自分たちが構築したウマいやり方を、外からあーだこーだ批判されようとも、いまさら改める気などさらさらない〉と考える人々がいる。
 
その人々は往々にして、自らの行いが糾弾されたとき、まずは論点をすり替える。平気で嘘もつく。問題を指摘している相手が「誤解」しているせいだと責任を転嫁する。もしくは、問いかけや指摘に一切まともに答えない。
 
それでもごまかせなければ、とりあえず早い段階で自分の行いを「撤回」し、「もう終わったこと」にする。(ただし、“自分たちのウマいやり方”自体は何としても継続を図る)

場合によっては、問題の証拠を隠蔽・抹消する。事実を改ざんし、記録や歴史を書き換えることだっていっこう厭わない。(その罪責の念で誰かが自ら命を絶とうが、意に介さない)
 
そもそも、その人々は、何かの問題がぱっと炎上したところで、最終的には時が経てばそれはキレイに忘れ去られてゆくのだということをも、すでによく「学習」している。
 
事実、炎上事や、それと同じ効果を持つ「お祭り事」は、まるで意図されているかのごとくに次から次へ矢継ぎ早に向こうの方から繰り出され、市井の民に立ち止まる時間と〈熟考する習慣〉を与えない。
 
「民衆の騒ぎなど瞬間的なことに過ぎないのだから、全く恐れるに足らず」。
 
左様に、差別と分断を巧みに利用して他者の生の有り様を自分本位に支配しようする権力者に、わたしは“舐められて”いる。
 
その「権力者」は、例えば居丈高な中高年男性として個人の姿をとってわたしの前に現れてくることもあるが、じつのところ、それはむしろ、人格も個性も体温も持たず、もはや実体すら失われた「空気のようなモノ」の姿で、ふんわりと懐柔するように、わたしを舐めにかかる。
 
そうした「舐められっぱなしの自分」に甘んじることを、ちょっとずつでも、いま改めよう。改めてそう思った。
 
身の丈や分をわきまえてなどいられない。
 
・・・・・・・・・

追記:
旭川の川村シンリツ・エオリパック・アイヌ(兼一)さんが亡くなったとニュースで知った。直接じっくりお会いしたことはないので、氏の本当の人となりはぼくは知らない。ただ、今、不思議な喪失感がある。縁などほとんどないぼくの勝手至極な願いだけれど、どうか、シンリツモシリ(祖先の国)で、ぜひ炎を燃やし続け、一向改まろうとしない我々に火を点け続けて欲しい。


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