不定期日記

Mapped

札幌に出た後、東京へ出ていました。
都心で
地下鉄やJRに乗ります。
目抜き通りを歩きます。
そこには
本当にたくさんの人がいます。
そしてその時
本当に本当にたくさんの人が
長い時間をスマートフォンと向き合って過ごしています。
その、
僕にさまざまな思いを抱かせる情景や「現象」を
なんとかうまい一言で抽象化できないものかなぁ…と
じーっと言葉探しをしていたら、
見つかりました。
その一言は、英語の動詞の「Map」です。
それは、
たとえば電車の中にいたり通りを歩いている人たちが
みんなGoogle Mapで経路検索をしてる…というような意味での「Map/Mapping」ではありません。
いや、まさにそのことこそも含めてなのですが、
多義的に、
私たちはいま確実に
“Mapされつつある”(We are getting to be mapped)のだな、
と僕は思ったのです。
まだいろいろこれについて書きたいことはあるのですが、
眠たいので、言葉が繋がっていきません。
いまはただ頭の中で、尾崎豊の『17歳の地図』が
ピリピリ、ヒリヒリと繰り返されています。
はい、時代遅れのおっさんは、もう寝ましょう。
おやすみなさい。
翌日に追記
「map/mapping/be mapped」。
それは、たとえて言えば、己が手に自分の白地図を握りしめ、その空白地帯をどう埋めていこうかとピリピリ・ヒリヒリまたはワクワクと思案する、というような、前時代的で、ある種牧歌的な意味合いではなく、むしろ、我々自身の精神(ひいては身体)が知らぬうちに「白地図化」されてゆくイメージ、もしくは「全体図の構成要素化」されてゆく、というようなイメージでの「Map」です。
(一昨日、ちょうど銀座で開催中の星野道夫写真展を観覧し、そこで、星野氏が自らの旅を記していったアラスカ原野の白地図を目にしたことも、僕に“Map”を印象付けたのかもしれません)
いずれ僕たちの身体は、5〜6インチサイズの発光板から発せられるブルーライトのprojectionによってひたすら何かを(何かと何かが)mappingされ続ける“有機スクリーン”となってゆき、ひいては、仮想現実や拡張現実の一構成要素として生きてゆくという“新しい在り方”を得て行くことになるのかな…そんなことを妄想します。きっと遅かれ早かれその物理的な発光板を手にする必要さえもなくなるのでしょうね。(そうか、多分そのときはもう、手や目や声もいらなくなりますね。おお、昭和のSFだ!)
40億年の歴史を経てきた生命の総体が現時点でそれを望んでいる、というのなら、それも一つの「大いなる進化」であり、生命総体が描きつつある「針路図」なのでしょうね。