不定期日記

映画『卒業』と『バベットの晩餐会』

フェリーでは、エゾリス番組を(いろんな意味で)微笑ましく観ていただけじゃなく、
同じくNHKのBS放送で映画を観たりもしました。
今回の旅程では、往路ではダスティンホフマン主演『卒業』(1967年・アメリカ)、
復路では『バベットの晩餐会』(1987年・デンマーク)を観ました。
どちらもそれぞれに「ああ、観てよかった」と思えたのですが、
特に、初めて鑑賞するデンマーク映画である『バベットの晩餐会』が、じつに素晴らしかった。
それぞれの映画の内容詳細をここに書く余裕はありませんが(検索してみてね)、
僕の個人的感想としては、この2本、実に対照的な映画だなぁと思いました。
方や、’60年代後半のアメリカ富裕層に属する青年の心や行動の揺れ動きを、
奇異なエピソードと映像描写、また意味深な挿入歌の伴奏とで描き出す、いわゆる「ニューシネマ」。
方や、19世紀のデンマークのごく小さな寒村を舞台に、
「清貧」そのものの暮らしを営む初老の姉妹に起こるある出来事を、
実に淡々としたカメラワークと音楽、またゆったりとした語り口で描く静かな映画です。
これら二つの映画で描かれる
「そこ(その環境・場所・人間関係の中で)で生きること」
「精神と肉欲」
「恋や愛欲(または結婚)」
「静寂(サイレンス)」
「信仰(教会、十字架)」
「そこを離れる自由・移動の自由(Are you going to…)」
といった概念や事物等の扱いが、なんだか本当に対照的だなぁと。
上記した概念や事物について、どちらの映画においも、
僕は、通奏低音としての「かなしみ」の存在を終始感じてたのですが、
しかし、その「かなしみ」の質感が双方違う。
『卒業』においての「かなしみ」は、ニューシネマならではのヒリヒリザラザラ感。
どこまでも乾き、冷たく干上がっていくような「かなしみ」。
方や『バベット…』では、「かなしい」のに豊か。
救いがないほど「かなしさ」を秘めながら、なぜか温か。
草しか生えない辺鄙な寒村の年老いたじじばばの話なのに(失礼!)、
そのかなしみは、汲めども尽きぬ井戸水のように、静かに潤っている。
もちろん、どちらの「かなしみ」描写が優れているかをここで説きたいのではありません。
『卒業』は『卒業』で、見事にヒリヒリさせられる。
もしかしたら、往路で『卒業』を観たから、
なおさら復路での『バベット…』に感じ入ったのかもしれません。
偶然とはいえ、往復それぞれの船上で、面白い組み合わせで映画を鑑賞できたなぁと感じました。
ちょっと幸せです。
みなさんも、この組み合わせ、試してみては?