今日も、どうでもいい独り言を…。
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インターネット勃興期、ブロードバンド通信を提供するプロバイダーの売りことばは「常時接続!」だった。
実際、社会は、さまざまな意味でそのようになった。
すでに、通信を流通させるバンド(帯域)が広いか狭いかだとか、
接続されるもの同士の間が遠いか近いかの概念さえ、
少なくともユーザーレベルでは、考える必要がなくなってしまったような昨今だ。
常に「繋がり」がある。
情報も、人間同士の関係も、問いも答えも、常にその繋がりの中にある。
一昔前ならば、“風の中で風に吹かれていた”ような問いや答えすらも、
いまでは全部ひとつの「雲(cloud)」の中にすっぽり収められてしまったかのようだ。
しかもその巨大なはずの雲は、不思議なことに、いつでも小さな掌の中で光っている。
常に知り、常に知られ、常に知らされる。
常に得、常に得られ、常に得させられる。
何かを得るためにわざわざ汗水流し、
工夫と知恵を振り絞る必要など要らない世の実現も、きっともうすぐだ。
重苦しい身体も、煩わしい精神も、要らなくなるのだ。
幸いなるかな、人類。
この調子で、何でもいいから、どんどん繫れ、人類。
でも、それゆえなのだろう、と思う。
「断つ(絶つ)」「断たれる(絶たれる)」という経験が、
昨今、これほどまでに重みを持って我々に迫ってくるのは。
いまきっと、断つこと・断たれることの意味、
さらにいえばその「価値」が、我々に学び直されることを待っているように思う。
思えば僕らが属するところの生命は、
その40億年に渡る試行錯誤のなかで、例えば「死」という断絶のシステムを“発明”し、
それを今の今まで大切に温存し、かつ研ぎ澄まし続けてきた。
もし生命というものが、その断絶のシステムや、
それに付随する分裂・離散・隔絶をいうプロセスを獲得できずにいたとしたら、
はたして生命は、40億年と言われる歴史を“繋いで”くることができただろうか。
少なくとも生命にとり、ある種の断絶には、軽視できない意味があり、重大な価値がある。
多分これから、僕らが属する生命総体は(特にヒトにおいては、きっと肉体レベルの深刻さで)
「断つ・断たれる」の意味を新たに模索し始めるだろう。
また実際、それはあちこちで、いろんな形で、すでに始まっているように思う。
その模索の中で謙虚に学んでいかねば、と自戒する。