◆校正
ある機関から機関紙への寄稿のご依頼をいただき、
原稿を一本書いて提出したところ、担当の方から返ってきた初校には、
修正箇所(朱入れ)が思いの外たくさん。
動詞の誤用や回りくどい表現を細かいところまで直してもらい、大変感謝。
あのまま表に出ていたら…。ちょっと恥ずかしい…。
ただ、そんな「丁寧で正確な校正」に感謝の念を覚える一方、首をひねる校正箇所も。
というのも、論旨そのものや著者(僕)の思考論理に直に関わる言葉や言い回しが、
ところどころ別の言葉で書き換えられていたのだ。
二重引用符や鉤括弧を用いてあえて強調した言葉までもが、いくつか。
確かに、それらの箇所で改変された語句や表現は、原文では、
一般的にはあまり馴染みのない言い回しになっていたり、
ちょっと“いびつ”な印象や「軽い引っかかり」を読者に与える表現になっていた。
なので、校正を担当してくださった方々(複数名による校正だそう)は、
より多くの読者がその文句をより受け入れやすいように「整えて」くれたのだ。
事実、それら修正後の語句は、
きっとどのような読者でも難なく了解了承できるであろう、
聞き馴染みがあって間違いのない「常套表現」に置き換えられていた。
それはきっと、
「小寺さんの伝いたいことは、こういうことですよね?
それなら、こうした表現を用いたほうが、より多くの人に抵抗感無く受け入れてもらえますよ」
という、編集者・パブリッシャーの職業的意図と善意に基づいた提案だったのだろう。
もちろん、字数や段組バランスなどの「体裁」を整えるという意味もあったろう。
ただ、正直なところ僕には、なんだかちょっともったいない校正のしかただな、と思えた。
著者側の身勝手な言い分に過ぎないかもしれないけれど、
そうしたちょっといびつで、ちょっと凸凹していて、サラリとはいかず、
「ん、なんだ?」となるような部分が
著者の“らしさ”を醸し出すだろうにな、と思うのだ。
なので、担当の方に連絡をし、こちらの当初の作文意図を詳しく説明したうえで、
訂正箇所の再訂正を含む再校をお願いした。
もちろん、先方はこちらの要望を快く聞き入れてくれ、無事校了。
結果、こちらの本意も伝わり、かつ原文のぎこちなさが程良く整った一文になったように思う。
そもそも、あの浅はかな拙稿自体に読む価値・世に晒す価値が有るか無しかについては…
まあ、読者個々にご判断いただくとしても、ひとまずは、よかった。
でも、気になることが残った。
じつは、拙稿が掲載される予定なのは、機関紙のいわば「オピニオン欄」。
その機関が属する専門分野に関して分野外の第三者から意見を聞く、という構えのコーナだ。
だから僕も文中では、部外者である小寺卓矢のこれまでの職業的な活動経験を紹介し、
そこで得られた所感を、あまり強い提言・断言にならないように注意しつつ、
しかしできるだけ安易な一般論に陥らないようにも注意して、個人的見解として述べた。
そうした広義の批判的な目的を踏まえて私見として寄せられた文章に対し、
その論旨や著者の思考ロジックに関わる部分にまで、
当の依頼者側からの「丁寧な直し」がはいってしまって、本当にそれでいいのかなぁ、
という心配が、気になったことの一つ。
まあ、それぞれの出版物にはそれぞれの編集方針というものがあるから、
これは余計なお世話なのかもしれないけれど。
あともう一つの気になったこと。
それは、その機関が属する専門分野というのが、
公教育の現場(学校教育、そして子どもたち)だということだ。
これは僕の考えすぎかもしれないけれど、もしかしたら、その“専門分野”界隈が、
じつは全般的に(狭義の作文指導に限らず)、
こういうふうな「他意はなくとも整え過ぎてしまう」ことに
知らず知らずのうちに慣れきってしまっているのではないだろうか…と、
またも余計な邪推をしてしまったのだ。
それが杞憂であることを切に願う。
もちろんこの余計な邪推は、たちどころに、
創作ワークショップなどを通して子どもたちと関わる僕自身にも
ズバッと跳ね返ってくる矢となる。
また当然、二人の小、中学生の子をもつ親としての我が身にも。
自省、自戒。
「慣れ」への警戒、怠るべからず。