ふた月ほど前、水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』 (集英社新書)を読んだ。
Amazon http://www.amazon.co.jp/dp/4087207323
内容を全部理解できたわけではないけれど(知識や教養が全然足りない!笑)、
理解できないなりにも、いろいろ発見や気づきがあった。
近代資本主義の成り立ちを
「蒐集(しゅうしゅう/コレクション)の歴史」として捉えた視点が興味深かった。
人間が持つ、とどまることを知らない「蒐集欲」は、歴史において、いろんなものを蒐め、
また、それらをより効率的に蒐めるための仕組みや力学構造を組み上げてきた。
領土、資源、労働力、貨幣、利息、そして現代の金融空間におけるマネー。
(昨今は、それはヘリコプターに乗って向こうの方からやってくるという)
実体のあるものから始まって、次第に実体を持たない仮想物へと、とにかく蒐め、
そして、占めよう(occupy)としてきた。
しかも今は、効率的に蒐めるという実務を機械上の“システム”が
自動的に電子空間でやってくれるようにすらなっているらしい。
人の「蒐めたい欲」に、限りはないのか。
蒐めても蒐めても、まだまだ蒐め足りないのか。
満たされるということは、ないのか。
つまり、人の前には、
「何かで占められなくてはならない虚空」が
まだそんなにも大きく広がっているというのか。
何をもってすれば、その虚空は満たされ得るのだろうか。
いや、そもそも、
そのような虚空が人の心や身体の内外にあるとして、
本当にその「空隙」や「穴」とも言い得るような“薄暗い空間”は
(ひとことで「闇」などと言い切った方がある意味潔いか…)
「何かをもって占められなくてはならない」ような、
忌むべきものなのだろうか——
特に先週末から今日に至るここ数日というもの、
僕は、近所の公園や街角で、普段とは違う様子で楽しげに行き来する人々の群れを眺めながら、
ぼんやりとそんなことを考えている。
考えたところで、それが何かを“満たして”くれるわけでは全然ないのだけど。
(蛇足ながら、僕は、「このような虚しく中身のない投稿をSNSやブログに上げてみたところで、
決して多数の「いいね!」を蒐めることはないだろうな」などとついつい考えてしまう人間だ。
つまりそれは、僕の中にも明らかに、旺盛な「蒐集欲」が蠢いているという証左なのである。
僕も、自分の欲がどっちを向いていて、その欲の穴の底がどの辺にあるのか、知らない)