不定期日記

「死と霧」V.E.フランクル著

少し前のことだけれど、V.E.フランクル著「死と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」(霜山徳爾訳・みすず書房)を読み終えました。
00601
http://www.msz.co.jp/book/detail/00601.html
(画像はみすず書房HPより借用)
この本は、人類史に暗く刻まれた蛮行の一つ、ナチスドイツによるジェノサイドを辛くも生き延びた心理学者が個人的体験記録として記したドキュメントでもあり、また人間心理や人間存在に係る彼の論考です。
本書の前段で著者が心理学者の観点から淡々と記述するアウシュビッツをはじめとする収容所での生活の様子は、その記述がじつに淡々としている故に凄まじく、「壮絶」としか表現しようのないものに思えました。(それは「生」や「活」の字句が表すものの全く対極にある状態ともいえましょう)
そうした描写の中で、本書は、「人間」や「ヒト」がどういうイキモノであるのかを多角的に提示してくれます。
その一つは、いうまでもなく「人間の残酷さ」。ヒトは、ある特定の帰属意識のもとで集団の一員となった時(そう自己規定した時)、想像もできぬような暴力的残酷さを発揮し得る生き物なのであるという実証例が、陰惨で、醜悪で、胸がムカムカするような体験談、見聞情報によって明らかにされます。
(旧版であるこの霜山版には、著作本文に対する付録として、当時の収容所の様子を写した写真等の図録や歴史的資料が複数添えられているため、ムナクソの悪さがなおさら強く感じられます)。
また本書は、物理的存在(生命体)としてのヒト、もしくは社会的・人格的存在としての人の「脆さ」も明らかにします。ガス室や射殺場における、生命活動のあまりにもあっけない終了。また、汚辱に満ちた日々の中で生きる意志を奪われた人々がいかにあっけなく人格的に(結果として、字義通り間も無く肉体的にも)死せる存在に貶められてゆくのか。
それら「残酷さ」も「脆さ」も、同じヒトとして、できれば見せられたくない、知らされたくない事実です。
しかし一方で、著者であるフランクルは、そうした究極の残酷と脆さに直面しながらも、人は尚も“人として生きる”ことのできる「強さ」をもっているのだということを、力強く(でもやはり心理学者としての冷静さをもって)読者に示してくれます。
じつは著者にとっては、本書前段で残酷や脆さを描写しそれによる人間理解を行うことは、本書を著す目的ではないのです。むしろ、過酷・劣悪な収容所の個人的体験の記録は、最終段の「人として如何に“生きる”か」の論考のための前置きに過ぎないのかもしれません(それにしても、その前置きは、壮絶で、決して軽んじることのできないものですが…)。
そのようにして著者が最後に示した力強い「生」、「生の尊厳」へのまなざしに、僕は深く感銘を受けました。それは、たとえば胸が高鳴り、思わず落涙するような感慨ではありません。もっと身体の奥深いところで、静かに折り重ねられ、沈められていくような、そんな感慨です。まあ、それは容易に言葉に表せません。むしろ、きっと安易に言葉にしないほうがいいのだろうと思います。
ぜひ、本書を紐解き、特に終盤第8章あたりをお読みいただきたい。古い本ではありますが、今の時代にこそ読まれるべき本かもしれません。
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人の「弱さ」と「強さ」。そのことを考えます。
「夜と霧」でフランクルがその体験を通して教えてくれた人間の「残酷」さは、言うまでもなく人間のもつある種の「弱さ」の現れなのでもありましょう。
フランクルの記述からも、本来は他者への優しさを十分に持っているであろうある個人が、たとえば囚人監視員という属性を付されたが故に、囚人に対して実に残酷非道な存在になりうるということが読み取れます。環境や状況如何で、いかに人間の思考や振る舞いが容易に変えられてしまうのか。現代に生きる我が身に引きつけて考えても、そこに人間の「弱さ」を感じずにはいられません。
しかし一方で、その残酷さというものが、生命体としては脆弱な部類に属するであろうヒトという動物種族が生存持続のために編み出してきた「社会化」という文化の具体的な一表出であることからすれば、誤解を恐れずに言えば、じつは「生物としての“強さ”(強み)」の現れとも言い得るものです。
社会におけるある種の帰属意識が人の思考や振る舞いを意識的・無意識的に強化し、不可能と思われていることでも現実として「可能」にする。結果、その集団とそこに属する己が身の生存優位を確かなものにする。
じつは、フランクルが最後に示す「生の尊厳」、「生に向かう人間の強さ」も、その根拠の一つを「社会の中で生きてきた・生きているという事実を認識すること」の中にもっています。
「人は、弱くもあり、同時に、それ故に強くもありうる」。言い古されてきたことかもしれませんが、いまそうした「人間の事実」について、あらためて考えさせられています。
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参議院選挙です。
参院選東京選挙区候補のミュージシャン三宅洋平氏の街宣演説「選挙フェス」の様子をYoutubeでみました。渋谷駅前を埋め尽くした聴衆の前で、普段着で、自分の言葉で、ギターやドラムの生演奏をバックに、まるで音楽ライブのMCさながらに演説をする彼の“選挙スタイル”を観て、正直に言えば、僕は、自分の胸がじわじわと熱くなるのを感じました。「いいじゃん、こういうの。いいじゃない、こういう伝え方(デモンストレーション)」と思いました。
しかし一方で、明らかに胸が熱くなっている自分に対し、「まて、その胸を一旦冷やせ」と警句を発する自分もいました。
僕が選挙区民だったら、僕は彼に1票を入れるかもしれません。国会の中に彼のような存在は何人かいた方が絶対いい。でも、彼の、ある種のカリスマ性に溢れる演説に無意識的に心が動いたということに対して、「その胸を一旦冷やせ」という自分もいるのです。
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東京都知事、不正疑惑追求と、辞任。
イギリスで国民投票。その結果の混乱。
オリンピックがまた催されるそうです。リオで、東京で。
ダッカで、裕福な若者達による民族・宗教の名を語ったテロリズム。
日本、参議院議員選挙。
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少し前に「死と霧」を読んだ感慨が、70年も前に記された一体験記から受けた感慨が、なぜでしょう、いまもまだ胸中で波紋のように広がっています。
そんな中で、相変わらず遅々としながらも、中学生達との写真集作り写真絵本の制作を進めています。