不定期日記

蛮行に思う

悲しく、情けなく、やりきれない気持ちになります。
ニュース「チビチリガマ荒らされる 沖縄戦で80人以上が集団自決した洞窟」
http://www.huffingtonpost.jp/2017/09/12/chibichirigama_a_23206777/?utm_hp_ref=jp-homepage
’95年12月、僕が北海道へ越してくる直前。知人らと訪ねた読谷村で、知花昌一さんの案内でチビチリガマに入らせてもらった時の、あの息の詰まるような暗く重たい衝撃は、いまも心に残っています。
この場所に遺されていたのは、きっと誰もが知ることや記憶することを拒みたくなるような、どす黒い、苛烈な「痛み」のしるしでした。
しかし、そうした苛烈な痛みであるからこそ、しっかり直視をし続け、この場所にそうした痛みが生じたという現実そのものを記憶と記録に留め続け、そこから学び、知恵を得てゆかなければなりません。
そうでないと、人間はほんとうに弱いものです、きっと遠からぬ未来に、同じ痛みがまた誰かを苦しめることになります。
実際、いまの社会の、不信や猜疑がぐるぐると渦巻いているような様相を見るにつけ、案外ほんとうにそれは遠いことではないのかもしれないぞ、と思えてきます。
もしいま、“民の命を守るため”に何らかの「アラート」を鳴らすべきだとするならば、たとえ出来事の規模としては小さなものであったとしても、こうした行為に対してこそ警鐘を鳴らさなくてはならないのかもしれません。
なぜなら、まさにこの場所、いやこの場所に限らず沖縄という島では、何かを「護る」という大義名分のもとで、実際には、地に足をつけたたくさんの現実の民の命が守られることなく打ち捨てられていったと歴史が伝えているのですから。
このニュースが伝える出来事が事実だったとして、では一体どのような意図でこうしたことが行われたのか、それは僕にはわかりません。
ただ、理由は何であれ、この場所を踏みにじる行為は、ここで痛みを受けた人たち、今もなお痛みの中にある人たち、そして、未来においてあんな痛みは誰にも味わわせたくないと切に願う人たちすべてに対して唾を吐きかけるもので、蛮行というほかありません。やめてくれ。
本当に情けなく、やりきれない気持ちになります。