不定期日記

何度でも

どうでもいいことですが…
録画していた「音楽の日」というテレビ特番をいま観ています。
安住紳一郎アナウンサーの司会で松山千春が生で歌ったすぐ後、
ドリカム吉田美和が大阪から中継で歌う、という、
北海道十勝の人間にはちょっとニヤリとする構成を楽しみました。
さらには、そのしばらく後のコーナーでは
「太陽にほえろ!」のメインテーマがちらりと演奏されて、またニヤリ。(殿下)
これで中島みゆきが登場したらパーフェクトでした。
・・・・
ところで、ドリカム(DREAMS COME TRUE)が歌った『何度でも』。
いい曲ですね。
11年前の曲ですか。
もちろんいままで、それこそ「何度でも」耳にしてきた曲ではあるのですが、
何となく聞き流してしまっていたのですね(東日本大震災の時でさえ)。
メッセージはシンプルですが、強いうた、強い歌詞です。
例えば、「悲しみに支配させて ただ潰されるのなら」。
そもそもあり得ないことかもしれませんが、
もしここが「支配させて」ではなく「支配されて」などとなっていたら、
ひらがなたった1文字の違いとはいえ、
ちょっと弱いうたになってしまったのではないかと思いました。
主体を曖昧にしない、というか、弱さの源も、強さの源も、
曖昧にぼかさないで、ちゃんと自分で背負ってく。抱きとめていく。
「きみを呼ぶ声 力にしていくよ」のところもそうですね。
例えば「思い出の中のきみの声が、きっとわたしに力をあたえてくれるだろう」
なんていうような甘えたことは言わない。
そうじゃないんだ、「きみを呼ぶ“わたしの”声を、“わたしが”力にしていくよ」、という宣言。
いいです。
そして、そうした詩もいいけど、そうか、曲もいいのだな、と思いました。
「意味もなく無駄にAメロを繰り返したりなんかしないぜ。
無駄につなぎのオカズなんか入れないぜ。
とにかくとにかく、歌詞を、思いを届けるために、
大事なことだけ積み重ねていくぜ、何度でも、何度でも。」という、
何といったらいいのでしょう、一つの気迫のようなものを感じます。
それはもう、イントロから。
そして最終盤の、「10001回目は 来る」。
この、もう何人にも有無を言わさぬ“断言”(宣言のさらにその先)へ向け、
弱さももどかしさも自分でしっかり重ね合わせていく。
だから、強い。なんか、そんか感じがします。
吉田美和さん、素晴らしいと思います。いままでちゃんと聴かずにごめんなさい…。
追記:
夕食の皿洗いをしながら『何度でも』を何度も口ずさんでいて、「ああ、そうか」と気づきました。
「あくまでも僕にとっては…」というただし書き付きになりますですが、
このうたがこうも強く響くもう一つ理由は、
多分、繰り返し呼ばれるのが「きみ」ではなく「きみの名前」だからなのかもしれません。
10000回繰り返されるのが、「きみを呼ぶ」ことではなく、
「きみの名前を呼ぶ」ことだからなのかもしれません。
(ラストの一節だけは「きみを呼ぶ」になってますが)
詩を作った吉田さんにとっては、そういう意図は無かったかもしれませんけれど、
僕にとっては、とても大きな「意味」です。