連投ご容赦。いまの政権が実行する行政の酷さ・醜さについて、あまりにも腹に据えかねるので。
これまでずっと、わたしたち主権者は徹底的に雑に扱われ、つまり、バカにされてきた。布マスク2枚はまだ届かない。
今日の東京新聞「論説室から」が端的。現状のお粗末さ・雑さについてコラム子も腹に据えかねているのが伝わって来る。頑張れジャーナリズ、頑張れ新聞。
でも、最終的にこの「救いようのない雑さ」をなんとかするのは、われわれ主権者。へらへらしていてはいけない。
> 権力者が前言を翻し、手順を踏まず、勝手気ままに振る舞う「雑な政治」。責任は「ある」と言いながら、決して「取ろう」とはしない。
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さて、撮影に出かけよう。自然と向き合ってこよう。
個人的な感覚だけれど、自然の、特に、植物を含む野生のいきものたちの世界は、どこにフォーカスを合わせても「なんと精緻で丁寧に出来上がっているのだろう」と感じる。
野生はときに素朴ではあるが、反面、どこを取っても決して粗雑ではない、と思える。そして、それは、全てが、その存在やいのちを“賭して”いまそこにいる(在る)からなのだろうな、と思う。
野生は、己が生きるように決定づけれられた時間と空間と関係の中で、〈責任〉などという概念をそもそも一切要しないほどに、自ずから然りとそこに在って、凛とその位置を占めている。
ぼくはきっとそのことに「なんと美しい…」と心動かされているのではないだろうか。
ただその一方で、粗雑を許し、丁寧さを欠いてでも生きていられるヒト、そして人間という存在がこの宇宙に現に在ることが許されているという事実も、それはそれで、不思議で素敵で、愛すべきことであるとは思うけれど。
御託はいい。撮影に行こう。〈責任〉などはるかに超えた〈『然り』とした在り方〉を、たとえばたった一輪のチシマザクラの花の姿形の中に見せてもらいに、出かけよう。