不定期日記

千と千尋の神隠し、また観た、また考えた。

また観ちゃったよ…「千と千尋の神隠し」テレビ放映😅。 何度観てもすごいなあと思う。

昨夜、いいなぁと思ったこと、感じたこと。

“傷つき存在そのものが失われかけている他者に、何かを食わせて癒す”というパターンを4度繰り返す。

その中で「最初は癒される側であった主人公が、癒された経験を己が身の糧として、いつしか、同じやり方で“失われそうな他者”を癒す側になってゆく」という、「実経験を通した成長」の様子を描写する。

千尋が油屋の外壁をアクロバティックに駆け下りる2つのハラハラシーンもそう。

1度目は、ハクに指示されて釜爺を尋ねる際に木製階段を駆けおりるシーン。ここでは、駆けおりる動機は他者(ハク)からの指図だし、駆けおりることが結果的に速やかに成功したのも「踏み板が不意に外れた」という意図せぬ外的要因の影響が大きい。

でも、2度目の雨樋(排水管?)を渡り降りるシーンは違う。動機は「他者(ハク)のために」という自分の内発的な意思だし(「やったるで!」という決意の象徴行動である“たすき掛け”すらする)、その成功も自らの力で成し遂げたもの。

「実経験を通した成長」。

宮崎駿さんの(当時の)問題意識、もしくは、ずっと変わらぬ価値観が透けて見える気がする。

(なお、この2度目の雨樋駆け下りアクションシーンの直後の、カメラがゆったり広いロングの絵に切り替わり、壁を離れた雨樋がぎぎーっとゆっくり下へ垂れ下がっていく描写と、その前景に白い鳥が2羽、悠々と画面左から右へゆっくり気持ち良く滑空移動し行く描写が、「おお!なんと気持ちいいことか!」と感じた。ここで海鳥のゆったりとした滑空を描くんだよ、宮崎駿は。

 アクションの緩急と、それを下支える“視覚の緩急”。宮崎駿さんは、この「生理的な快感」をいかに生むかの方策を、もう何十年も一途に探求してきたのだなぁ。そりゃ筋金入りだよなぁ。気持ちいいはずだ、と思った)

まだ書きたいことはいろいろある。映画冒頭のお父さんの左腕に描かれた腕時計から、沼の底駅の針の無い大時計、また銭婆宅のキッチンに置かれた小さな小さな赤い置き時計にいたるまでの「時計」の存在について。

登場人物たちの「優しさ」について。カオナシの「影」について。

湯婆婆と銭婆がそれぞれ、どのように他者を招き入れ、どのように扉を開け閉めし、どのように「火をつける」かについて。

銭婆宅で千尋に供された紅茶がなぜカップの中で揺らめいているのかについて。

あと、エンディングで千尋一家が再びトンネルをくぐるシーンが、なぜ物語冒頭と全く同じ壁面(ひび割れ模様が同じ)の前を、全く同じ「右から左へ」の移動で描かれたのか、その意味と意図。単なる手抜きのために映像を使い回したわけではあるまい。(いや、実際、手抜きの意味もあったのかな?)

観るたびに小さな発見や気づきがある。名作と称されるに値する映画だよなぁ、と素直に思う。

今朝長女が「やっぱりテレビだとCMがじゃまだね。DVD買おうよ」というので、きっとそうする。(ところでその後「色温度問題」はどうなったのかな?)