観ました。今日放送のNHK Eテレ『TVシンポジウム「“探究”が教育を変える」』。番組内容の詳細は以下のとおり。(リンク先より引用)
”これまでの知識重視の学びから、生徒自らが課題を発見して解決していく探究的な学びへと、学校教育が大きな転換期を迎えている。授業はどう変わるのか。生徒や教師には何が求められるのか。先進的な事例を映像で紹介しながら、探究的学びの可能性や課題について議論する。”
シンポの中で「先進的な事例」として4〜5例ほど紹介された取り組みが、軒並みすごかった。
総合的学習やゼミや部活動の取り組みのなかで、中高生たちが自ら「問い」を立て、課題を抽出し、生徒同士のコミュニケーションや部外者への取材活動(海外フィールドワーク)、開発型実験による思考錯誤、ICTを活用したデータ収集などをとおして課題解決の糸口を見出していく。
ぼくには、その様子が非常に良いものに見えました。
見るからに「協働的」。肯定的かつ本質的な意味において「グローバル」。
子どもたちはきっと、学ぶこと自体について、非常に「深く」て有意義な経験を得ているんだろうなぁ、と素直にそう思えました。
だって、すごく生き生きといい顔してたもん、子どもたち。じつに「アクティブ」。
いいなぁ、いいなぁ。「学校」で「勉強」するときに、あんな顔になれるなんて。いいなぁ。
で、パネラーとしてシンポジウムに登壇した当該実践校の校長や関係者が語る理屈や理念にも、頷くところ多々。
なるほど、いま注力すべきはそこなんだな。そういう教育理念と実践がこれからほんとに大事なんだろうなぁ。教育ってのは常に時代とともに生まれ変わってるんだなぁ。なるほど、なるほど。
ただ……しかし……なぁ……。
胸にぼんやり影がさします。
というのも、その「先進的事例」を実践しているのが、やはり軒並み「首都圏の名門(らしい)私立校」だってのが、うーん、ちょっと、どうも……。
多分、事例で紹介された如き環境で学ぶことができているのは、いわゆる「中学お受験」というようなプロセスを経て今の学校生活を送ることができている子どもたちなのでしょう。
誤解を恐れずはっきり言うならば、経済的・社会環境的にいわゆる“恵まれた”環境にある子どもたちですよ、きっと。
「エリート教育」とまで言ってしまうと言い過ぎだとは思いますが、しかし、ある意味で「狭き門」をくぐるための“前提条件”をクリアできる環境下で育った、“選ばれた子どもたち”なんだろうなぁとは思います。
で、ぼくはついつい考えちゃいました。
「なるほど、首都圏や近畿の都市部にある大学のうち、いわゆる上位校と称される学校には、こういう“先進的な経験”を経た子どもたちが多少なりともいるのだなぁ。
そして、方やこの北海道の片田舎の地元の公立小中高校で、“決して先進的とは言い難い環境”に学んだ子どもたちが、もし首都圏のそういう大学に進学するならば、現状としては否応なしに、そういう前提の元でそういう経験を積んできた子どもたちと「いっせーのせ!」で伍していかなくてはならないのだなぁ。そりゃ、はっきりいって、大変だ……」
––––と。
イヤでもぼくの脳裏に「格差」「階層」そして「分断」というあまり気持ちの良くないキーワードが浮かんできてしまいます。
パネラーとして登壇していた慶応義塾大の教授がシンポジウムの中でポロリと発言した「いまはどこの中高も海外研修をやっているでしょうけれど…」という言葉にぼくはハッとさせられました。
いまや慶応あたりの先生たちの常識の中では、中学・高校で海外フィールドワーク学習をするなんてのはもう「当たり前のこと」なんだな。たとえば我が家の、一切海外渡航経験のない“先進的ではない田舎娘”たちは、これからそんな前提の中へ漕ぎ出してゆくのだな––––––と。
ふーむ。ふーむ。
まあ、考えてみれば、よりによって公教育の総元締めである文部科学大臣が「身の丈にあわせて……」なんてことを公言するご時世ですからね––––––。
よし。
わかった。
それもこれも全部踏まえた上で、では、何の因果か超々零細自営業者の元に生まれ育った我が家の“極めて恵まれない田舎娘たち(笑)”が、この先いかに「生き生きといい顔をして自分の人生を生きられる」ようにするか、そしてその生き方が一体どういうものでありうるのかについて、この片田舎で地に足をつけつつ、自分なりにさらに考えていこうっと。
奇しくもいま現在は、これまで日本社会における「エリート教育の粋」であったはず中央の最高級官僚たちが、政治の腐敗・堕落や社会環境の激変の中で惨めな境遇を強いられる、じつに切ない時代です。(しまいには自死にまで追い込まれ……。その“現在進行形のデタラメっぷり”の本当に酷いこと……。コロナ禍の影に隠れていますけど。)
あれもこれも、これまでの既成概念ややり方がリアルタイムでブッ壊れつつあるこの時代の中で、北海道のクソ田舎の人間たちが経験することが却って“ばりばり先進・ばりばり尊い”ってなり得る道がどこかにあるのかもしれません。
そういう意味で、いまはまさに、子どもたちにとってのみならず我々オトナにとっても、“探究”しごたえのある時代なのかもしれません。
そもそも「生きる」ってこと自体に“先進”も“後進”もないしねー。『野の花を見よ』。
そんなことを思わされたテレビシンポジウム鑑賞でした。