これももう10年以上前に撮った写真。
この、河畔の岩礫の上に不落の古城のごとくずどーん生えたカツラの大株は、じつは今はもうありません。いつぞやの大雨がもたらした奔流が、根こそぎひっくり返し、下流へと流してしまいました。
「えぇっ! あの大株が、無い!」。現場で思わず声を上げてしまったのをいまも思い出します。でも、不思議なことに、カツラがなくなった風景そのものは、からりと明るい景色としてぼくの眼に映りました。
もちろん、大きな株だけでなく、そこに寄生するように息づいていた小さな草やコケたちもみな等しく流れ、流されていきました。
当たり前のことなんですけど、このカツラとサクラソウとコケたちのように河畔に根ざしたものに限らず、たとえそこが海岸や山肌や平原だろうが、野にあるものたちは、基本そのように、大いなる流れの中で常に流れつ流されつ生きてるんですね。
で、そのようなものとして流れの中を生きつつ、それぞれの季節に、それぞれに芽吹き、それぞれの花を咲かせるんですね。
至極当たり前のことではありながら、でも、それを踏まえて春の草花を眺めるとき、あらためて、「ああ、花って愛しいものだなぁ」と思います。そして、自分で撮った写真ながらも、今日投稿したこの古い写真を見ても、やはりそれを思います。
今日で3月が終わります。今年の3月が流れてゆきます。で、当然、今年の3月が巻き戻されることはありません。いま足元で咲いている花があれば、いま愛でよう。いま咲きそうな花があれば、それもまた、いまちゃんと愛でよう。そんなふうに思います。
お隣の家のクロッカスが昨日咲きました。うちのはまだです。これからです。
さて、今日はこの後、十勝川の河原へ行きます。石ころ拾いにいくんですけど、でも、河原や河畔林にいまにも開きそうな花芽が無いか、それも探してみます。
皆さんもどうぞ良い1日を。