星野源がコラボを促しつつウェブ配信した楽曲「うちで踊ろう」が話題になっています。
特に、我が国の総理大臣による「おウチでまったり映像」の衝撃コラボレート以降、話題の拡散・伝播の仕方に突然変異が生じ、また新たな騒乱が生じかねない状態になっている感も、無きにしも非ず😅。
その騒動の中で、星野さん自身が、この楽曲の英名を「Dance at home」ではなく「Dancing On The Inside」としたことの理由について語っていました。
曰く、この楽曲が意図するところは、“お家”(home)ではなく“内”(the inside)なのだ、と。
(しかも、提案を表す命令形の動詞原形’Dance’ではなく動名詞’Dancing’、また、定冠詞theを付した名詞としての’inside’なのですね、副詞ではなくて。)
興味深いです。面白い。
というのも、新型コロナウイルスがその活動によって象徴的に炙り出していることの一つがまさに〈inside / outside〉または〈自 / 他〉の〈境〉の在り方なのかもしれないなぁとぼくは思うからです。
それは単に「ひたすら家の〈内〉に篭り〈外出〉はしないようにしよう」とか、またはより巨視的な「県や国の〈境〉を封じよう」とかいった社会的状況のことばかりではありません。
例えば、そもそもコロナ肺炎という病は、生体の「外」を損傷するのではなく、「内」を「内から」破壊する病気だということ(厳密には、人体組織における内と外のちょうど境界上だけれど)。
また例えば、その破壊に至るプロセス自体も、ウイルスがしていることといえば、自らにとって唯一のアイデンティティであるともいえる〈内〉なる物質=遺伝子をただひたすら複製し続けるという極めて〈内向き〉な作業であるということ。
はたまた、その作業工程の一つの区切りは、複製した遺伝子を一つひとつ個別に膜で包むこと、つまり〈境〉を設けることにある、ということ。
そして、そうした感染症に根本的に打ち勝つための唯一の方法である個々人の「免疫」についてもまた、その仕組みの要諦は、膜の形質を拠りどころとした「〈自/他〉の判別」にある、ということ。
もっというと、すでに何度かこのブログにも書いてきたことですが、ウイルスという病原体が「生命体」と「非生命体」の〈境界線上〉にある曖昧な存在であることも……。
–––––––と、そんなことをあれこれ思い巡らします。
〈inside/outside〉や〈自/他〉の判別。〈境〉をどこに・どのように置くか。その判断。
そんなことがこのウイルス騒動によって象徴的に問われているような気がするのです。この“緊急事態なご時世”にずいぶん呑気な言葉遊びばかりして、申し訳ないのですが……。
ヒンシュクを買うついでに、ここでさらに言葉遊びの幅を広げるならば、先に触れた我が国の総理大臣による「おウチでまったり映像」に対する批判=criticismの高まりも、「判じること」という文脈の中では、このコロナウイルスによるまさにcritical(危機的/重大)な災厄の中では必然なのかもしれません。
ただ、「判じること」や「あるものとあるものの間に境を設けること」について、何か「絶対的な基準」や「究極的な理念」があるように勘違いしたり、やみくもにその厳密性や純粋性を追求することばかりに汲々とするのは、却ってちょっと危ういとも思います。
「ひたすら問え。そして問い続けよ。己の身体と生活でな」。
今回の感染症騒動は、つまるところ、頭でっかちになりすぎたニンゲンさまに、始まりも終わりも見えないトワイライトゾーンの中で「身をもって考えつづける」ことを求めているのかもしれません。
で、たぶん、ぼくがいまここに記したような考えこそ、ウイルスたちにとっては、頭でっかちによる下らない言葉遊びの一つとして「批判」の対象になることでしょう……😅
ウイルスたちのDancingは、ぼくらの中で、まだ止みそうにありません。