このブログに、奇しくも連日「仔」のことを書くことになりました。
鳥の仔のことと、
ニュージーランドの赤子(あかご)のことと。
どちらも、誰かから食事を与えられ養われている仔たちの、穏やかで微笑ましいできごとについてです。
でも、いまぼくは、もう一つ、昔いたある「赤子たち」のことにもちゃんと思いを致さねば……という気持ちになっています。
それは、たとえば広島で、たとえば長崎で、たとえば沖縄で、たとえば満州や朝鮮半島で、たとえば南方の島々で、また、たとえば鹿児島沖の対馬丸の船中で、今から70数年前に、もう金輪際誰かに養われることも愛されることもなく、不条理のうちにいのちを終えていった「誰かの赤子」たちのことです。
この「誰かの赤子」には、赤ちゃんばかりではなく、児童も青年も大人も含まれていました。じつにたくさんの、悲しいくらいたくさんの「赤子」たちでした。
「あかご」ではなく「せきし」と呼ばれて死んでいった人たちです。
この〈金輪際誰かに養われることも愛されることも無くなった赤子(せきし)たち〉は、その当時、いったいなぜ不条理のうちにいのちを終えていかざるをえなかったのでしょうか。
そのことに、74年後のいま、ちゃんと思いを致さねば……と思うのです。
そして、それに思い致せばこそ、電線にとまった鳥の〈子〉も、ニュージーランドの議長に抱かれた〈子〉も、何かに養われ「生」を続けるその穏やかで微笑ましい様子を見るにつけ、どうにも涙が出そうになります。
いまが「8月」だから、こんなに感傷的になるのでしょうか。いや、それだけではないような気がします。
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ここ数日、太平洋戦争後の昭和天皇の発言録が、『拝謁記』などと仰々しいタイトルで、盛んにメディアをにぎわせています。
なぜいまこの時期に、なぜ歴史の研究機関ではなく〈大手マスコミ〉にその発言録が手渡されたのか––––
ここに記されていることの全てを“天皇本人の肉声”として受け入れてしまって本当にいいものかどうか––––
この発言録が記された時にはすでに天皇との面会を「拝謁」などと呼び称す“必要”は無くなっていたにもかかわらずなぜ断固として「拝謁」なのか––––
……などなど、この発言録の取り扱いについてぼくにはよく分からないこと・すっきり腑に落ちないことがいくつかあるのですが、いずれにしても、これが重要な資料であることは確かなようです。
これについてぼくは、ちらちらとNHKの番組を観たり新聞報道を読んだりしました。
そして、この資料中のとある記述とその関連情報から、昭和天皇が自らの実の息子(現上皇)を「東宮ちゃん」と呼んで寵愛していたことを知りました。
この資料に遺された発言のなかで昭和天皇がそのように自らの〈子〉を「東宮ちゃん」と呼んだその時というのは、もちろん、あの戦争の後のことです。
日本内外の津々浦々、洋上、密林の中、洞窟(ガマ)の中や崖(クリフ)の下で、何十万何百万にのぼる〈天皇の赤子〉とされた人たちが死に、ある者はまさに〈天皇の赤子〉であらねばならぬゆえに残酷な非業の死を遂げた、その歴史的事実の後のことです。
何十万何百万の彼らとて、実の母や父から愛を込めて「○○ちゃん」と呼ばれていたことでしょう。
その何十万何百万の名も知られぬ「○○ちゃん」たち、そしてやはりすでに世を去った彼らのかあちゃんやとおちゃんたちは、戦後に昭和天皇が口にしたというこの「東宮ちゃん」という甘い響きを、草葉の陰から、いま、どのような心持ちで聴くのだろう–––––––
その一点を想像するだけでも、ぼくにはどうにもやりきれない思いばかりが募ってしかたありません。
幾多の〈赤子〉たちのいのちが失われたあの途方もない罪悪への贖いは、真摯に、まっとうに、なされたといえるのでしょうかね。
いまぼくらの社会は、【新しい時代】などという、じつのところは確たる根拠や実体のない恣意的な時間の区切りを、さもありがたく尊いものであるかのように見なし、それを喜び受け入れ、寿ごうとしているように感じられますが、本当にそれでいいのでしょうかね。
ぼくは個人的にすごく疑問に感じています。
来月広島県を再訪します。リニューアルされた平和祈念資料館を見学し、いろいろ考えてこようと思っています。
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またしても堅苦しくてつまらない投稿になりました。以上です。おやすみなさい。