北海道新聞。金曜日はオピニオン欄「各自核論」が好き。そして日曜日の朝刊は、「風・論説委員室から」と充実した文芸・書評欄が好き。で、お気に入りの論説委員は寺町志保さんと黒田理さん。いやこれは蛇足。
書評欄は読んでいてじつに愉しい。世界はこんな切り口からものぞき込めるのか! といつも驚かされます。でも一方で、欄を読み終えた後、若干胸が苦しくもなります。
紹介されている本の著者も、それを批評する論者も、ああ皆さんそれぞれ弛まず怯まず怠けずに「それぞれの仕事」を全うしているなぁ……と感心させられ、同時に、自分自身の仕事に対する怠惰を否応なく自覚させられるからです。ああ、自分の仕事、ちゃんとしよう。
まあ、そんな自戒や自嘲はさておき、みなさん、本当に良い本を出されること。
「本」は死なず。
そして、そのことも含め「生身のことばの力がまだ脈々と生きていること」を我らに告げ知らせる「新聞」もまた死なず。
というか、本と新聞を死なせてはいけないな、と、今朝も思ったしだいです。
・・・・・・・・・
今朝、心が動いた記事は、これ。社説「協同組合の連携 地域の課題解決に期待」。
読み終わったとき、コロナ禍で知らず知らずのうちに冷え込んだこの心に、すっと温かいものが流れたような感覚がありました。
“高齢化と人口減が加速する北海道では、行政や営利企業だけでは解決の難しい課題も増えている。新たな連携組織が、持続可能な北海道社会を築く大きな力となることに期待したい。”
これ、既存の組合組織に限ったこと、また北海道社会に限ったことではないですね。日本社会全体、国際社会全体、いや、ヒト集団全体=社会そのものが真剣に目指すべき一つの方向だと思います。
ちょっとずつ出せるだけの能力を出し合い、互いを生かし合い、それにより(その中で)自己を生きる。
ゆるやかな利己が組み合うことで実現する柔軟な利他。今後はもうこれを徹底して目指すしかないじゃん、人類。そんなふうに思うのです。自己の利や権力の拡大ばかりを必死こいて追求する“流れ”に乗って生きる時代は、もうオシマイ、終焉。
利己と利他。あらためて考えます。社会のこと、そしてそもそもの「生命」のこととして。何度かブログに書いてきたことではありますが、以下に備忘録としてまた書きます。
・・・・・・・・
生命の本性・本質が「遺伝子の利己性」にあるとする言説には、一定の説得力があるとぼくは思っています。
ただ、遠い遠い昔にそうした「自己複製による自己同一性の継続的な保存」を目指して始まったであろう「いきものの歴史」は、その過程でなぜだか「死=自己同一性(同一存在)の計画的な断絶」や「交配=自己から変異した他者の新造」というややこしい仕組みを獲得し、それをあえて温存し、より高次なものに育て上げていくんですね。
多分いきものは、その歴史のかなり早い段階ですでに、「自己保身やガリガリの利己だけじゃ、全体がもたない」って“判っちゃった”んですね。「退くべき時にはちゃんと退いた方が良さそうだ」とか「自分と異質な誰かさん同士の関わり合い(関係の“組み合い”)に、“自分の有限な生”を託しちゃったほうが、なんかうまくいくっぽいな」と。で、その方向にぐうっと舵を切って、実際それで何十億年かうまく“旅”を続けてくることができた。
結局、その「いきものの歴史上の大発見・大発明」の本質に立ち返るべき時に、いま、来てるんですよね、きっと。
奇しくもまさに今、コロナという名の「ウイルス」がそれを明らかに照らし出しているように見えるのが、ぼくにはとても面白く感じられます。
ウイルスはその構造や機構上「生物」には分類されていません。でも、振る舞い自体は非常に生き物的。己の遺伝子をいかにたくさん増殖させるか。「産めよ増えよ地に満ちよ」をピュアに体現する連中です。いってみれば、自己同一性の保存に関して極めて純度の高い「利己的欲求」を本性的にもつ存在。(ただし戦略として「変異のし易さ」も併せ持つのがニクいところ…)
一説では、いわゆる「生物進化」の初期段階、ぼくらヒトも含む生物の細胞が現在の基本的な構造を獲得してゆくプロセスで、ウイルスが非常に大きな役割を果たしたのではないかとも言われています。ウイルスは、現存生物システムの生みの親の一人、つまり先・生命(プロト生命)なのかもしれません。
その「生命に先立つ者」がいま純度の高い利己的な振る舞いをすることで、翻って、“万物の霊長”などとも称される我らヒトの生物的営みに大打撃を与え、それによって図らずも、現代人自身の「利己的振る舞い」が孕む危険・歪み・滑稽さがまざまざと浮き彫りにされてます。
卑近なところではマスクや便所紙の買い占めしかり。ぼくから程遠いところでは、投資市場や資本家たちの混乱しかり。とても興味深いです。
ただ、いまのコロナ騒動下の世の中の落ち着きのなさやどんよりとした空気は、やっぱり早いとこ払拭されて欲しい。「ポストコロナ」でかつ「ポスト利己追求社会」を、朗らかに生きたいな。