不定期日記

ぼくのセンサーの分解能

昨日は一輪だけだったのが、今朝は二輪咲いた。
 
増えた。増えてゆく。
 
「〈たんぽぽ〉ってかわいい名前の、黄色くてまあるいお花!」と思えば、何て嬉しいことでしょう。
 
でも、「地下深く根を蔓延らせる多年草で、種子拡散繁殖力もハンパない〈生態系被害防止外来種〉」と思えば、何て憂鬱なことでしょう。
  
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何かが増殖してゆく。拡がってゆく。そしてまた逆に、何かがなくなってゆく。失われてゆく。
  
そこには、簡単には割り切れず、掬いきれない意味があるんだな。
 
そして、「ヒトの〈ものごとを感受するセンサー〉の分解能って結構低いもんだよなぁ」と身につまされて思う今日この頃です。
 
でも、それがヒトをニンゲンたらしめているのだろうなとも思う今日この頃、でもあります。
 
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40代に入ってからぐんぐん老眼が進み、撮影の際、ファインダーの向こうの被写体たちもぼやけ気味。ぼくは普段からもっぱら手動でピント合わせをするので、結構困ります。
 
でも、だからこそあらためてよく分かったこともあります。
 
自分の眼そのものの合焦能が往時の冴えを失い、目の前の風景が以前ほどクリアには見えなくなってしまったとしても、だからといって、カメラという媒体(メディア)を通してものを視るのを諦めることはないんです。
 
まず、ファインダーの向こうの被写体を落ち着いてしっかり凝視する。
 
で、ピントリングを何度も何度も繰り、意図的にフォーカス状態とデフォーカス状態を行ったり来たりさせる。
 
すると、その繰り返しの最中に「写しとりたいものごとのコントラストがピークに達する位置」が一点だけあることが感じられる瞬間がある。
 
その時にシャッターを切ればいいんです。
 
特に、動かない植物相手であれば、「その瞬間」が本当の“それ”なのか確証を得るために、上記の「意図的なフォーカスとデフォーカス」を何度繰り返してもいい。
 
たった一度の一瞬を一発でキメる必要はない。たどたどしいやり方、それで十分。目の前の世界の美しさも不思議さも、ましてや醜さも、それほど簡単には失われていかない。大丈夫。
  
まあ、これは、言うまでもない、つまりはカメラのオートフォーカス機構の基本原理なのですけど、でも、そうした原理が、老眼で視界が濁るっていう自らの経験を経てよくわかりました。歳も、とってみるもんです。
 
はい、今日の長たらしい日記は、以上です。


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