不定期日記

『アラバマ物語』

さっきこの映画をDVDで観終えた。

『アラバマ物語』監督:ロバート・マリガン/1962年/アメリカ

古い映画だけれど、初めての鑑賞。いい映画だった。いまここに書きたいことがたくさんたくさんある。でも、たくさんありすぎてちょっと言葉が出てこない。

たくさんの人に見て欲しいなぁ。いま。概要についてはぜひWikipediaなどでどうぞ。

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以下、この映画の大変印象的なオープニングクレジットについて語りたい。またかなり長くなります。話の内容そのものについてのネタバレはしないように書きますが、その代わりぼくの個人的な妄想解釈がたっぷり。閲覧は自己責任で。

ぼくは映画の冒頭のほんの数十秒のイメージシーンからすでにもう胸をゆらゆらと揺らされ始めた。何と味わい深い導入部だろう、と思った。

カメラは、映画本編中でその存在の意味が明かされることになる「ある小箱に収められたいくつもの小物たち」にぐっとクローズアップした状態で、ゆっくり舐めるようにパニング(視線の水平移動)を続けてゆく。

人形、壊れた時計、クレヨン、ペン、コイン、ガラス玉–––––。

で、パニング・カットの一番最後。アウトフォーカス状態で右から徐々にフレームインしてくるのは一つの「笛」(ホイッスル/whistle)だ。

その笛が画面中央に収まったところでカメラはパンを静かに止めると、それから笛へとすうっと柔らかくフォーカスインしてゆく。

笛という「音を出すもの」へと合焦するちょうどそのタイミングでフェードインしてくるスタッフクレジットが、音楽監督、すなわち“音”の人(Elmer Bernstein)。

なるほど、面白いな。

でも、ちょっと待てよ……。

「音を出す物の映像」と「音楽担当者のクレジット」を重ねてみせるという“ちょっとした小細工”も素敵だが、ただそのことのためだけに、この、それ自体で大変印象的なオープニングカットのパンのラスト(終点)を飾る物品として「笛」が選ばれたのだろうか––––––。

いや、もしかしたらこの「笛」には、他に何かとても大切なことが象徴されているのではないだろうか–––––?

本編を鑑賞しているあいだもずっと、笛に託された意味、笛が象徴するものが何なのか、ぼくはずっと気になっていた。

そして、鑑賞を終えて、ぼくは気付いた。

その笛は、単に「音を出すもの(楽器)」としてのwhistleなのではなく、「鳥のさえずり」としてのwhistleであり、また「警笛」としてのwhistleでもあったのだ。

そう、この映画の原題(というか、原作となった大ベストセラー小説の原タイトル)は「To Kill a Mockingbird」。直訳すれば「(美しくさえずる)マネシツグミMockingbirdを殺すってことは–––」。

物語のエンディング。主人公である7歳の女の子・スカウトは、あることで混乱し苦悶する弁護士の父親に向かって、まっすぐに、諭し質すかのように、こう言う。

「ねえ、美しい声でさえずるマネシツグミ(Mockingbird)を殺すことは、〈罪〉なんでしょ?」。

ネタバレは避けたいので、その少女が具体的に何についての話をしているのかはここには書かない。でも、少女が放ったその声自体が、小さな鳥の澄み渡ったさえずり声=whistleにようにぼくの胸中に響いた。

そして、そのように小さく、ときにあまりにも無邪気過ぎるさえずりこそが、人間が抱え込んでしまった「矛盾」を鋭く突き、人に「人間らしくあることの何たるか」を気づかせ、道を踏み外さないよう注意を促す〈警笛=whistle〉になるのだ、とも気づかされた。

(加えていうならば、この少女が愛称として「スカウト=Scout」、つまり、戦場において敵の状況や地形などを誰よりも先んじて探り見、その様子を本隊に“告げ知らせる”役割である「斥候」という名で呼ばれていることも、象徴的に感じられた)

人間が本当に戦う(fight)べき相手はだれなのか。本当に恐れるべきものは何なのか。たくさんの矛盾や“不正義”の中で本当に打ち勝たなくてはならないことは何なのか。また「人と人とが共にある」ということはどうあるべきか。

映像や台詞の一つひとつが含蓄や象徴性に富み、たくさんの大切なことを静かに“告げ知らせ”てくれる、とても良い映画だった。

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さてこうなると、ぼくはついいつもの拡大解釈・誇大妄想癖をさらに発揮して、この「音を出すもの」であり「美しい鳥のさえずり」でもあるwhistleというものを「芸術的なものや営為」と読み直してしまいたい欲求にかられる。

そして、いつものように、恥ずかしげもなくこんなことを言いたくなる。

「“芸術”は、いまこそそれぞれが持てる喉を震わせて、美しくまっすぐにさえずるべきである。どんなに小さく、取るに足らないさえずりであろうとも。誰かから「それは不合理であり矛盾であり欺瞞だ」と蔑まれる可能性があろうとも。」

いま、やたらとボリュームが大き過ぎる「正義のさえずり」(Tweet)が、その騒々しさゆえに人々の「分断」を深めています。そういうときこそ、声の小さいものが、小さいなりに澄みわたった音を風の中に高く吹き鳴らし(whistle)たいものです。


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