お知らせ

権力が情動に手を突っ込んでくるとき。

政治家や大メディアなど現実的な権力をもった者が、正統かつ丁寧な手順や論理構築努力をすっとばして、人々の「情動」つまり〈快さや恐怖や不安などで“感動”する心の領域〉にむやみに手を突っ込もうとしてきたならば、それがどんな目的でなされたことであれ、ひとまずは「ちょっと待て。」とその手が侵入してこようとするのを拒むことが大切かもしれません。

そうした作法は、人間の歴史が幾多の手痛い失敗体験から与えてくれた「尊い教訓」ではないかとぼくは思っています。

いまぼくが何にあてつけてこれを書いているかといえば、それは、河野防衛大臣が自らの発案で自衛隊に命令を下して職務遂行させたという5月29日のブルーインパルスの“感動的”な曲芸飛行のことです。

予算360万円が高いか安いか、それが生き金か死に金か、といったカネの話じゃないんです。また、実際にその東京上空での曲芸飛行が感動的で快いものだったか否か、操縦士たちの気持ちがどうだっか、それを見て励まされた医療従事者が実際にいたかいなかったか、とか、そういうことでもありません。この際、何を目的としていたか、ということですらありません。

それ以前の、「権力が我々に働きかけようとして為すこととの向き合い方」のこととしてです。

また、より根本的には、人にとっての〈感動〉のあり方のこととしてです。

ぼくは、丁寧に考えたいのです。

なぜ「医療従事者の苦労に報いること」が「東京上空で、自衛隊機が、青空に白い航跡を描く曲芸飛行をすること」と直線的に結びつくのか。両者にいったいどんな関連性があり、それらの行為にどれだけ妥当で論理的な整合性や、結び合わされるべき必然性があるのか。

しかし残念ながら、考えれば考えるほど、ぼくにはその関連性・整合性・必然性がちぃとも分からない。

で、逆に、ある一つのことがクリアに分かってくる。

本来どうかんがえても直接には結びつかない二つのことを一つに繋ぎ合わせている強力な“接着要素”が、確かにそこにはある。「謝意やねぎらい」と「曲芸飛行」が一つの関連事項として人々にスムーズに受け入れられることを可能にする、欠くべからざる要素が。

それがつまり〈感動〉です。〈感動的であること〉です。それが人々に非論理的であることをサラッと“許して”しまうからこそ、この二つのことは関連できるのです。むしろ今回の二つのことがらの間には唯それしか無いと云ってもいい。

ここでぼくはなにも、〈感動〉が仲立ちとなって本来は無関連なはずの物事が人の心の中でスムーズに重なり合うこと自体を悪いことだとして否定したいわけでは無いのです。むしろそれ自体は、人類がつくり上げてきた「芸術行為」の本懐だと思っているし、「人間らしさ」の一つとして尊ばれるべきことだと信じています。

ただ、今回のコレについては、〈感動〉があまりに粗雑かつ強引かつ恣意的に“利用”されているように思えてしかたがないのです。いわゆる「無理筋」です。

今回のこれがどう贔屓目に考えても「先行き不透明なオリンピック絡み」であること、また、河野氏属する自民党が将来的に正式に「軍隊」に“格上げ”しようと望んでいる自衛隊絡みであること含め合わせて考えると、ぼくにはどうしても「感動的なんだから別にいいんじゃね。“良いこと”なんだから細かいことは別にいいでしょ。」と流せることではありません。

すごく注意が必要だ、と、ぼくの「非国民な心」が、警報アラートの鐘をカランコロンと鳴らしています。

非国民的暴言ついでに書いちゃうと……

権力が個人の〈感動〉に手を突っ込んでこようとする時と同様に、個々人が個々人として何かに対して自由に〈感動〉しようとすることに対し、権力者の側が「それは不義・不道徳だ」などといちゃもんをつけてくる時にもまた、まずはそのいちゃもんに対してこちらから徹底的に疑問の視線を投げかけることも至極大切なこと思います。

これもまた、遠いようで案外近い歴史の教訓だとぼくは思っています。

つまんない投稿ばかりでゴメンなさい。でも、お手軽に感動ばかりしても・させてもいられないこのご時世です。世界は変わっていきます。足を止めて「丁寧に感じ取りつつ考える」とき、かと思います。


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