いろいろ

一昨日は良い撮影ができた。
日没後、まだ空がほの明るいうちに西の空に浮かぶ月を撮影する必要があり、
それがうまく撮れたのだ。

日没を月の入りが追いかけるような状況は、
天体運行から言えばおよそ一月毎に一回巡ってくることになるのだけれど、
今回の案件はそこにもう一つ、4月下旬でなければならない条件も重なっていた。
撮り逃がしはできないシチュエーション。

雲が月を隠してしまえばそれでもうオシマイなので、
午後、日が傾くにつれて西の空の状況が気になって、何度も空を仰いだ。

そして18:30ごろ、太陽が日高山脈の向こうに没した。

ああ素晴らしい。程よく色づいた雲が適度に山並みの上にたなびいて、
さらにその上に、しだいに群青色を深くしてゆく夕まぐれの空が清涼さを湛えて広がっている。
細い細い二日目の月が、徐々に輝きを増しながら静かに浮かんでいる。

あらかじめ決めていたアングルと画角で何カットか撮影。
予定していた撮影が首尾よく終えられた安堵に加えて、
冴えた空と月の清々しさが本当に気持ち良くて、
カメラを片付けた後もしばらく空を見上げていた。

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昨日の3時のおやつはまさおかのおまんじゅう。
JR芽室駅前にある菓子店「まさおか」は、めでたく100周年だ。

100年か。子どもの頃には「百」というのは途方もなく大きい単位のような気がしていたけれど、
いまは、そのころと違う「百」の捉え方をしているなぁ…と思う。

決して「短い」「小さい」などとは思わない。
けれど、子どもの頃にこの語から得ることができていた尺度、この語が与えてくれていたスケール感と、
いま「百」から受ける印象とは、どこか違う。

「100年の半分」の時間をもうすぐ生き通すことになりそうだからかな。
100年単位で更新されてゆく「世紀」というものの節目にすでに立ち会ってしまったからかな。

いやそれとも、300年とか1000年を「まだ途上」とでもいうが如き
樹木たちと向き合うような仕事を選んでしまったからか。

もしかしたら、「百点」とか「100%」で人間の出来を測られるような環境には
いま自分が居ないってことも、あるのかな。

いずれにしても、「百」や「100年」の重さは重さとして変わらずに感じつつも、
その重さの質が違うように感じられてきたということなのかもしれないな、とちょっと思う。

ところで、奇しくもというべきか、ちょうど昨夜就寝前に読み終えた本は、
三木成夫著「海・呼吸・古代形象」(うぶすな出版)。
解剖学、発生学の視点から、いきものの中に等しくしまいこまれている
「生命記憶」を辿ってゆく論説・エッセイ集。

生命が呈する様々なリズム・パターン・形象の中にはおのずと、
地球という天体が誕生して以来数十億年の太古の地史や、
その中で生まれ連綿と育まれてきた生命の歴史が、
ある「おもかげ」として立ち現れてくるという。
じつに壮大な話だ。

この本によれば、ぼくの体の中にも、「百年」や「千年」どころか、
「億年」の単位(スケール)が、細胞一つ一つの中にちゃんとしまいこまれているらしい。

その悠久の「億」は、たとえばこのまんじゅうのあんこのように、普段は見えないけれど、
ずっしりと重く、味わい深く、大事に、確かに、包み隠されているの、かな。

ともあれ、まさおかのまんじゅう、うまかった。

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昨日は、キッチンのレンジフードの掃除をした。

前回いつ掃除をしたのか定かでなくなるくらい放っておいたので、
ああそろそろやらんとダメかも、と思って、フードカバーを外したところ…
ああ、ものの見事に「因果応報」。
できることならば「見なかったことにしておこう…」と、
そのままそっとカバーを戻したくなるような悲しい状況。

高いところにあるレンジフードの掃除は背の高いおとうちゃんの仕事、と、
じつに変テコなジェンダー役割意識の元に「俺の仕事」を自認しているので、
いまこそやらねばならぬ。

カミさんが好んで使っている「セスキ炭酸ソーダ」を使ってみる。
油ぎとぎとのレンジファンを、60度のお湯に溶かしたセスキ炭酸につけて置く。
2時間後。おお、すごい、油がとてもやわらかく浮いている!

セスキ炭酸ソーダ、オススメです。