またフランスで、また酷い出来事がありました。
遠い出来事とはいえ、心が暗鬱となり、うすら寒くなります。
僕は決して“ニーチェ信者”でもなく、
ましてやニーチェの著作などたかだか1作品をほんの斜め読みしただけの、
単なる「ご都合主義のつまみ食い読者」に過ぎませんが、
しかし、それでもやはり、先日もこのブログに引用した彼の著作中の言葉を
今一度胸中で反芻せずにいられなくなりました。
それは、今回のような陰惨な事件に関係する“どちらに対しても”、
願わくはそのようであって欲しいという願望からです。
しかし、この深く混乱してしまった現在においては、そこに生きる人々が、
ニーチェが作中人物の口を借りて語ったこの言葉(のエッセンス)が示す如くに、
“飽きた”その先へと“人として超えて”ゆくなどということは、
どだい無理なことなのでしょうか…。
また、仮にもし僕自身がこうした事件においてその“どちらか”となってしまったとしても、
それでも僕は変わらずにこのように呑気な「願望」を抱き続けられるものでしょうか…
自分でも、わかりません。すごく考えさせられます。どうしたらいいのでしょう。
・・・・・・・・・
“ こうして、ほとんどすべての人間が、徳に関して一役買っていると信じている。
すくなくとも、誰でもが「善」と「悪」については、よくわきまえている者だと主張している。
これらすべての嘘つきや道化たちのところへツァラトゥストラが来たのは、
なにも「あなたがたが徳について何を知っているだろう! 何を知ることができよう!」
などと言いに来たのではなかった。——
そうではなく、ツァラトゥストラは、わが友よ、
あなたがたがこれらの道化や嘘つきたちに教えられた古いことばに飽きるように、——
「報酬」「報復」「罰」「正義による復習」などといった言葉に飽きるように、——
「私心のない行為が善である」などと言うのに飽きるように、と願って、来たのだ。 ”
引用元
「ツァラトゥストラはこう言った〈上〉」
ニーチェ著・氷上英廣訳 岩波文庫 p160