今日も長い日記。
今朝の道新朝刊文化面に二つ並んで掲載された寄稿がそれぞれ良かったです。
一つは、昨日の投稿でぼくが「対論が良かった!」と紹介した中島岳志さんによる時評論壇「強権待望論が招くもの」。いまの〈雰囲気〉への警句。
そしてもう一つは、生命誌研究者・中村桂子さんによる「手洗いに学ぶー皆で生き延びる社会に」。(記事は©北海道新聞、©中村桂子。画像へのモザイク処理は小寺。道新に限らず、ぜひ新聞を購読しましょう!https://www.hokkaido-np.co.jp/)
中村さんは、コロナ禍に揺れる社会の現状認識やこれからなすべきことを、自らの心境を交えながら、「手洗い」というキーワードを軸にして述べていきます。
その中で、ここでもまた昨日の投稿で紹介した対論と同様に、ドイツ・メルケル首相がテレビ演説で国民へ発した言葉への言及があったのがおもしろいですね。(そして、それとは文脈こそ違えてあるものの、わが邦の例の「2枚の布マスク」についての違和感もさらりと呈されていました。)
また、同じ紙面で隣り合って掲載されている中島さんの論考の眼目である「緊急事態宣言が権力者に強権を与える危険」への問題意識が、中村さんの論考でもしっかり言語化されて提示されていたのも興味深かったです。やはり、いまとても注意しなければならないことなのですね。
ただ、中村さんの文を読んでぼくが一番興味深く感じられたのは、じつはそれらとは別のことでした。
それは、中村さんが同じ論旨のことを、言葉を変えながら繰り返し繰り返し論中に織り交ぜていたことでした。
例えば––––
“近年の社会は、あふれる情報の中を泳ぎ、自ら考えずに暮らす方向に動いてきた。”
“人工物に囲まれ、思い通りに事を動かすことをよしとする生活”
“ボタン一つ押せば答えが出てくる、面倒なことは専門家がなんとかしてくれるという期待”
“便利に機械を使って思い通りに動く社会がなんと脆弱なものであるか”
おお、中村さん、なんとしつこい。(笑)
文明社会に生きる人間に対する省察と批判。ひとことで言ってしまえば、そういうことです。
ただ、左様にしつこくしつこく、しかも平明で多様なことばで書かれているからこそ、中村さんの問題意識・危機意識がよりクリアに、そして重たく、読者であるぼくに迫ってきました。
中村さんは、プロフィールにある通り東大理学部卒の理学博士。ばりばりの生物科学者です。
もっぱらゲノム(遺伝情報)研究に打ち込んでこられ、キャリアの中で国立予防衛生研究所にも所属されていたそうですから、今回の騒動の「元凶」であり、今後の猛毒化変異の危険性も指摘されるRNAウイルスであるところのコロナウイルスについて、まさに「専門家」の立場で科学的な話題を盛り込むこともできたはず。
でも中村さんはそうしなかった。(この文化面コラムの枠組み自体が「新型コロナと文明」だったということも大きな理由なのでしょうけど)
中村さんのまなざしが、ウイルスの存在そのものだけではなく、それを当然の前提として生きていかなければならない「人間社会の有り様」のほうにしっかり向けられているということが、とてもとてもよく伝わってきます。
そしてぼくは、そのことに心動かされます。
文の結び近くで中村さんはこう書きます。
“私たちは、ウイルスが存在する自然と向き合って生きているのだ。自然とは、具体的には地球(グローブ)である。”
そして、
“手洗いから学ぶこともとても大事であり、それを今後に生かすことが重要と気付いた。”
……というふうに、全地球的視野から一転、〈自らの身体的営為〉、そして〈学び〉〈未来〉〈気づき〉に言及して論考を結ぶのです。