不定期日記

いまあるものを占有するのか、それとも共有するのか。

あるものを囲い込む「境界」。
その置き処、高さ・広さ、透過性や融通性。
どうする。

マスクも、防護服も、薬品も、便所紙も、
経験も、知見も、テクノロジーも、データも、
人間集団も、土地も、自治範囲も、
密も、疎も、
おうちも、おそとも、
大家も、店子も、
お金も、権威も、権力も、
安全も、危険も、
安心も、不安も、
愛情も、嫌悪も、
いのちも、非生命も、
ことばも、非言葉も、
声も、非声も、
ヒトも、非ヒトも、
「わたし」も「あなた」も「あいつら」も、

それらそれぞれを、どういうふうに囲ったらいい?
だれが・どこに・どんな「境」を置いたらいい?

そもそも、
一体だれが・どんな理屈をつければ
〈それらは境で囲い込めるんだよ〉
と皆が承諾できるのかしら?

(それって、ほんとに承諾できるのかしら?
承諾しちゃっていいのかしら?)

これはもう、38億年の生命の歩みを丁寧に振り返り、そのなかでも特に、〈歴史〉と呼ばれる「恣意的に抽出された人間営為」の境界の外にはじき出されてきた人々や生き物たちの価値観を、素直に、真摯に振り返るしかないような気がしてきた。

学び直しの時、ということなのだと思います。


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