不定期日記

「ケアの共産主義と、何もしないことによる貢献 :何かが起きている(起きる)のだろうか?」パトリス・マニグリエ(哲学者)

これを読んで「公益」ということをぼんやり考え続けています。この論を呈したマニグリエ氏は云います。

“では私たちにとって、公益とはいったい何なのでしょうか? 健康です。このような特殊な流行病の文脈ではそうです。〈略〉このような文脈では、思うに、一人一人の健康は同時に、全員の健康でもあるわけです。

ほんと。確かにそうだな。「個々人が健康である」ことは「みんなが健康である社会」の前提条件でもあり、一方でその証左でもあることは、もういまさらいうまでもありません。

健康を、身体のことのみならず「心」や「環境」にも当てはめて考えるなら、「健康である」とは「よく生きられる」とも言い換えることができるでしょうか。

もし人間が(まだいまのところは)「種の保存則」にのっとって生物活動を営んでいるとするならば、個体として「よく生きられること」がその個体にとっての「益」なら、「みんながよく生きられること」はすなわちその生き物種にとって「公益」です。

それは、あたりまえのこと。

でもいま、そうしたあたりまえのことを、コロナウイルスが、今までになくハッキリと目に見える形で明らかにしたんですね。

マニグリエさん曰く、ウイルスが「私たちに新鮮な知覚を投げかけた」

ウイルスは、今までにない形でニンゲンに向けてこう告げているんじゃないかと思います。

「そろそろキミらが云うところの〈公〉、つまり〈みんな〉の境目を柔らかに融かし、その範囲をガバッーと拡張してはどうかね。キミらニンゲンがこれまで唱えてきた〈みんな〉の定義は、たとえばあの時代においても、あの出来事においても、またあの偉大な書物の中においても、いつだってあまりにも小さく、狭く、恣意的で、時にイジワルすぎたよ」。

もう一つ。

「“益”とは何かをよく考えてみては? いったい、それは〈儲け〉のことかね? “益”をマネーの数量や力量で計りたがる習慣は、もうそろそろやめたらどうかな」。

そもそも「信用のやりとり」がマネーやその融通仕方ってものの源泉・本質・本体ならば、そろそろそのハデな金ピカ衣装の下にある〈本体〉のあり方をこそじっくり考えてみなければならないのかもしれません。

”ウイルスが示す方向を見つめる、それが大切です。それがつましいものであったとしても、その行為は、言葉に意味を与えるということに近いと思います。というのも、ウイルスは様々な言葉に中身を与えるように思われるからです。そして、まず何を置いても、その1つの言葉が、公益なのです。”

パトリス・マニグリエ(翻訳:村上良太/掲載:日刊ベリタ)

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追記:

長い生物史において、どうやらウイルスが、感染先である宿主の遺伝子(ゲノム)に自らの塩基配列を注入して“組み与える”ことで、生物の進化や多様化が加速してきたという学説があるようです。

さらには、これまでは、そのようにウイルスによって“組み与え”られた塩基配列は「ジャンクDNA」と呼ばれ、存在価値の不明な無駄なものとみなされていたものが、最近の研究では、その取るに足らない“つましい”「ジャンク」な領域が、じつは個体の形質発現に大きな影響を与えている、とも言われています。

DNAやRNAの塩基配列が情報を記した「コード」であることを考えると、マニグリエさんの

“ウイルスは様々な言葉に中身を与えるように思われる”

ということばが、なお深い響きを帯びてきます。


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