今日の長い日記は直接的に「死」に関する事です。過激な表現はありませんが、ちょっと閲覧注意かもしれません。メンタル不調の人は読まずにスルーをお勧めします。しかも、どうしようもない親バカ日記でもあります……😅
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さっき新聞を取りに外に出て、そのついでにいつものように庭の中をぶらっと見回ると、コンポスターを据えてある庭の隅、風除けのフェンスの下あたりに、赤いチューリップが横たえて置かれているのを見つけました。
枯れかけたチューリップ。そしてその下は、掘られた形跡のある地面。これ、たぶん、昨晩、長女がスズメの遺骸を葬った「お墓」です。
走行中の車にぶつかってしまったらしいスズメのなきがらが家の前の歩道に横たわっているのを見つけ、スコップで穴を掘って埋めてやったのだそうです。
じつは、長女はつい先日も帯広の某所で野鳥を葬ったばかり。
とある場所で妻と二人で満開のエゾヤマザクラの花をぼんやり見上げていたら、一羽の野鳥のシメが不意に長女のすぐそばにぱさりと墜落してきて、長女が見守る中、そのまますぅっと静かに絶命したのだそうです。傍らに立つ大きな建物の窓ガラスにでも激突したのだろう、とのこと。
そのときも娘は、シメの死を確かめると、すぐそばのあまり人目につかないところに小さく穴を掘り、その遺骸を埋葬しました。(そのとき桜の花のひと枝でもそこに供えたかどうかは、長女に聞きそびれました)
そして、昨夜のスズメです。なんでしょうねこの偶然。まさか小鳥たちが自ら選んで長女のそばで死んでいっているわけでは無いのでしょうけれど––––。
すみませんね、朝っぱらから「お墓」と「死」の話で。😓
でもぼくは、小さな小さな鳥たちがもたらしたこのできごとには、きっと大きな大きな価値があるんじゃないかと思っているのです。
何気無く過ごす日常の生活(Life)の中で、不意に、唐突に、無視できぬものとして、いきものの死、一つの生の終焉と対面すること。
その出来事がもつある種の“軽さ”と、でも、同時に孕む“重さ”。
それはきっと、「小鳥の身体はあまりにも軽く、でも温かく柔らかだった」と語る長女の身体感覚の記憶と共に、長女の心象風景としてこれからずっと残存し続けるのだろうと思います。
いのちの中には、生も死も含まれる。むしろ、生と死が不可分に隣りあっているからこその、いのち=Life。
いまや、文明化・都市化どころか「生活のオール情報化/仮想現実化」にひたすら盲目的に突き進むかのように思われるいわゆる〈Society5.0〉なこのご時世です。
一昔前であればごく当たり前に共有されていた「素朴ないのちへの眼差しと手触り感」が、どこかぼんやり霞みがちないま、特別に準備された環境下ではなく、ごく何気無い日常の中でこうした「Lifeの体験」を身を以て得ることの絶大な価値を、もしこの小さな小さなスズメとシメが与えてくれたのだとしたら、ぼくにとっては、そりゃなんとありがたいことか。
そして、この印象深い出来事の体験が今後どのような形で長女の中で〈昇華〉され、彼女の〈生きる表現〉へと変換されてゆくのか。そのことが(多分に語弊があるかもしれませんが)ぼくは、一人の親として、またニンゲンの一員として、楽しみでなりません。
まあ、当の小鳥たちには全くそんなつもりは無くて、あるのは「ひたすら無念」だけかもしれません。だって、間違いなく「もっと生きよう。もっと飛ぼう。」としていたのでしょうから、鳥たちは。
ごめんね小鳥たち。それでもなお、ありがとね小鳥たち。48歳おじさんも、大事にするから、許してください。
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……にしても、まだ比較的新鮮できれいに咲いているチューリップも庭に生えているというのに、わざわざ枯れかけたものを一本だけ選び、茎を手折って摘んで、供えるとは。
ひねくれヘソ曲がり変態なぼくなどは、そこにすでに長女の「表現」を感じざるをえません。ずいぶん前からトイレに荒木経惟や藤原新也の写真集なんかを置いてあるのが、いまになって“効いて”きたのかな?😅
いや、それは単なる親バカ心理ですね。ごめんなさい。
みなさま、どうぞ良い週末を。何かが終わり、また始まります。