不定期日記

ダイナミズム

高校生の長女が、最近面白い。日々、劇的に変わり続けている。外見や生活習慣など目に見えやすいことではない。彼女の振る舞いの中に、様々な刺激に身を晒すことで自分というものを“彫像”しようと試みる、その心性のダイナミズムが、見える。じつに素敵だ。

ぼくが本州へ出張している間に、長女はぼくの本棚から何冊かの本を抜き出し、読み始めていた。我が家以外の家庭でもそうしているところが多いと思うが、ぼくはほとんどの蔵書を家族の誰もがいつでもアクセスできるパブリックスペースに置いていた。だけど、実際に娘たちが(児童書や漫画以外の)ぼくの蔵書に自ら手を伸ばすことは今まではなかった(と思う。いや、たんにぼくが気付いていなかっただけかもしれないが…)。

長女が手にした本の中の一冊は、福岡伸一著「生物と無生物のあいだ」。この本のことは以前にもブログで紹介したことがある。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000147351

この本は、ぼくの書棚のその他の新書の数々に紛れこむように置いてあったはずなので、もしかすると長女は、ふと目について手にしたというよりも、意図的にこの本を探し出したのかもしれない。

そのことが、ぼくはとっても嬉しい。そしてそれ以上に、いま現在の長女がこの本で提示される価値観に触れることが、とてもとても嬉しい。

この本の主眼は「動的平衡」という概念である。生命、つまり「いきる」ということをも含めた我々生命体の営為や存在そのものを何によってどう定義したらいいのかという根源的な問いに対し、著者の生物学者・福岡伸一さんが科学界の先達の思想を援用しつつ導き出した一つの答えは、「生命とは動的平衡にある流れである」。

生命は、合成と分解、集約と拡散、内と外との出し入れにより絶えず「更新」を繰り返しながら、そのように“変化を止めないものとしての自己”を、不可逆的なものとして、自分らしい方法や秩序だてのなかで維持しようとする「仕組み」を備えている。

上のように書くとややこしいが、たとえば「方丈記」の冒頭「ゆく河の流れは絶えずして––––––」における「河」や「淀み」こそが生命の姿、ということもできるかもしれない。

つまり、長女が手にしたこの本は、まさに「生きることはダイナミズム」であることを説く本なのだ。

これはなんと素敵なことだろう。ほんとうに。

ついでに言えば、この本の白眉は、その主張内容のみならず、分子生物学というバリバリの科学畑の人である著者が記した文章が不思議な文学性を持って読者に迫ってくる、ということにもある。

この本を読んでいると、科学と文学のあいだに敷き置かれた無機質な境界線があたかも流体のように融解してゆくような、不思議な感覚にとらわれる。ぼくはこの本のことを、じつに興味深い“Art”な書物の一つだと思っている。

その本を、現に絵画などのアート分野に目下最大の関心を寄せている長女が手にした(手にしようと意志した)ということも、とても幸いなことだと思っている。じつに良い日々だ。


ああ、調子に乗ってまたも無駄に長い親バカ日記になってしまった。お許しください。

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さらについでに、蛇足。蛇足も長いぞ〜。(笑)

ここ数日の間にメディアから頻繁に聞こえてくる「安定した国会運営がいま一番大切」、「“決められる政治”が求められている結果だ」などという弁を聞くにつけ、ぼくの頭には大きな疑問と反感が湧き上がる。

それは違うのではないか。本当に安定させるべきは、“物事を決められる力(権力)”の優劣やパワーバランスなどではないはずだ。

そもそも本当は一つの姿など持ちようのない物事に一定の姿かたちを与えよう(=決めよう)という本来無茶で不遜な営みにおいては、よりbetterで賢明な平衡状態(妥結)に至るために、絶えず価値観の合成や分解、出し入れと更新を繰り返す「動的姿勢」をこそ安定して追求するべきだろう。

“一つに決めること”を欲深く追い求めるあまり、その力の在り処をむやみに安定化・固定化などしたら、ダイナミズムを失って、その淀みはいずれ腐る。

一極集約によるうわべの安定化・固定化を求めることは、じつのところ、生命原理に反する不遜だとぼくは思う。

南方熊楠の「南方曼荼羅」を思い起こす。さて、森へ撮影に行こう。