東北関東ツアーの報告その2。
■7月12日
この日は終日OFF。ほんとうは神奈川県内で撮影したい項目があり、車でそのロケハンをしたのだけれど、天候がすぐれずに今回の撮影は諦めることに。
ということで、海老名のイオンシネマで映画を観ることにしました。話題の『新聞記者』。ここではその詳しい内容は書きません。公式サイトや映画レビューサイトでご確認を。
ぼくの感想としては、ひとこと『悔しい』。
この作品は、観た誰もが「ああ、劇中のこの出来事は、間違いなく現実のあの出来事をモチーフにしている!」と判断せずにいられない、ある種の“忖度”を極力排した描写のされ方で作られたフィクション映画です。そして明らかに、その現実の出来事や状況が孕む問題や疑惑を正面から糾弾するスタンスで描かれています。
個人的なことをいえば、ぼく自身もそれらの「現実の出来事や状況」に問題や疑問を感じている一人ですので、この作品が作中で試みる批判や問題提起には強く同感を覚えました。観劇中、主人公の言葉や行動に「そう、いま問われるべきは、まさにそれだよな」と何度も膝を打ちました。
ただ、そのように、観客たるぼくを劇中世界にぐいぐいと誘い込む「切り口」や「モチーフ」は明らかに「のっぴきならない“現実問題”」であるのですが、その一方で、登場人物たちが2時間ほどの間に繰り広げる物語そのものは、これもまた明らかなこととして、「じつに虚構らしい虚構」なのです。
そのことが、ぼくにはとても悔しく感じられたのです。
ぼくは、「虚構」をもちいて現実を風刺したり糾弾したり、問題提起や意識啓蒙したりすることがダメだと言いたいわけではないのです。むしろ、虚構だからこそできることがあるし、事実、現実の真相を裏からあぶり出す虚構の“現像力”には、生半可なドキュメンタリーなど寄せ付けぬものすごい破壊力・突破力が潜んでいると信じています。一昨日地上波で放映していた『万引き家族』がその良い一例でしょう。
ぼくが感じた悔しさとは、この映画が取り扱っている「あれらの現実」を、なんでわざわざここまで「虚構らしい虚構」で描かねばならないのか––––という思いなのです。
すなわち、「こんなものごとや状況を、一体なぜ、“現実の道理”に照らし、“現実”の中でこそ糾弾・批判・解決できないのだろう、この我々は……」という、“我々がいまある現実”に対する、もどかしさと情けなさの感情です。
見方によっては、この映画がモチーフとしている現実の出来事やそれを取り巻く状況は、もうそれ自体がまるで「虚構」であるかのようにすら感じられます。
にわかに信じられないようなことが起こるものの、「いや、このようになっているのだから、これはもう、こうなのです。ご指摘には当たりません。はい、次。」と、何ごともなかったかのように押し通されていきます。
もしかしたら、そうした状況の虚構っぷりが、もう現実の道理では太刀打ちできぬほど深く「できごとや状況」の中に染み渡ってしまっているから、このようにわざわざ劇作品というカウンターの虚構をもって立ち向かわなければならない状況になっているのかもしれません。
うーん、それって、すごく悔しいなぁ。
……と、そんな思いを抱く映画鑑賞でした。(映画を観ていない方には、何を言っているのか全くわからない感想文ですね…。すみません…)
しかし、元男闘呼組・高橋和也は、ジャニーズアイドルからじつにいい役者になったのですね。とても好きです。
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ついつい話が長くなったので、ツアー報告はさらに次回以降へつづく。(いつ終わる?😅)