不定期日記

降りる

今日も自宅で仕事。必要なこと。でも、そろそろ森へ行きたい。

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今日は、風はあるけど暑くなりそう。カカカッと晴天。最高気温27度の予報。

こんな日は家じゅうの窓を開け放って思いっきり換気をしよう、と、2階へ。

2階で一番大きなガラス窓をがらがらがらと開けると、我が家に面した街路樹のキタコブシの葉擦れの音が、はい待ってました!とばかりにザササーーーっと部屋に入り込んできた。

うーん、いい気持ちだ。もっと入ってきていいぞ。

で、青空をちょっと仰いでから、目線を下げて庭を見下ろしてみる。おや、カボチャの花がまた何輪か新たに開いたな、と気づく。

見下ろす視界には、拙宅の西隣りに広がる畑地の様子もまた、入ってくる。

その畑地は、近隣の家庭菜園好きの方々3人がシェアして耕作しているのだけれど、玄人顔負けの、それは見事な菜園作りをする。

よく考えられた植栽レイアウト。整った畝。葉や茎の豊かな茂り。立派な野菜の成り。何より感心するのは、ものの見事に雑草が無い。それが一目に判る。

それにひきかえ、視線を我が家の庭の菜園に戻せば……ああ無情。

もし通りがかりの誰かに「おたくは雑草栽培を専門にする農家ですか?」と真面目な顔で問われても、ぼくにはそれに胸を張って「違う」と言い切る自信が無い。

うーーー。広島への出張に出かける前に、なんとかせにゃならんな–––––

あらためて思った。2階の窓から眺めてみることで気づかされることがある。「俯瞰」することで初めてもたらされる現状認識(そして反省)というものがある。

そうなのだ。高みに立って下々を見下ろすことには、有意な価値があるのだ。そう思った。

そういえば、知り合いの写真家たちが「ドローンを導入したよ!」と口々に言うようになって久しい。いまや写真も、カメラマンの視座から遥か遠く離れたところから俯瞰図・鳥瞰図として撮影されることが全く珍しくなくなった。

動画にしろ静止画にしろ、また、被写体が自然のものであれ人工のものであれ、彼らが俯瞰撮影した風景や事物の映像は、間違いなく、これまでにない視覚の斬新さと面白さ、これまでに無い情報や印象を備えていた。その映像は、ぼくに様々な気づきや感慨を与えてくれた。

なるほど、ときどき鳥の目で世界を観たほうがいい。そう思う。

でも。

俯瞰で「我が世界」の有り様を目の当たりにし、あれこれ「認識」してしまうと、ぼくはむしろそれゆえに、ああ、やっぱりあのフィールドに下りてゆきたいな、という気持ちになる。やっぱりおれは、降りてゆかなければ、と思う。

もちろんそれは、例えば、隣の畑地の見事なまでの雑草の無さを称賛しに行くためではない。ましてや、隣の畑にこっそり雑草の種を蒔きつけて「ざまーみろ」と悦に入るためでもない。

そうではなく、それは例えば、雑草の中で初々しく花開いた拙宅のカボチャの花が雄花か雌花かを確かめるためであり、また、もしそれが雌花であればそっと受粉の手助けをしてやるためである。

もしくは、ただただ単純に、その花の見事なまでの黄色さを「お前、きれいだな」と青空の下で寿いでやるためである。

その横ではきっと、幼児と小鳥以外には誰にも喜ばれやしないのに穂を膨らませたエノコログサたちが、はい待ってました!とばかりにザササーっと風に揺れるに違いない。

降りて行くのは、その音を間近に聴きながら、エノコログサとしばし向き合うためである。