不定期日記

町内会と「神社費」、あらためて考える。

午前、暑い中、歩道の草むしりに精を出すわが町内会の会長の姿を見つけたので、立ち話。以前から会長との間で話題にしている「町内会会計における神社費」のことを尋ねました。

(「神社費」のことは何度もブログに書いてきました。もう辟易!という方は読まない方がいいかもしれません。)

ぼくは、所属する町内会の会計支出費目に「神社費」支出が組み込まれそこから神社維持費用や祭りへの寄付金などが神社へ支払われていること、つまり、神社活動に対する献金や奉仕が個々人の任意や自発的意思によるのではなく町内会活動の一環として一律強制的になされるという伝統的慣習が「どう考えてもおかしな仕組みだよなぁ……」と思っていて、これについて異議を唱えています。

「戸割にすればたかだか数百円にすぎない金銭すらもお前は出し惜しむのか?」とか、

「お宅だって神社に初詣に行ったりお祭りを楽しんだりしてるでしょ。少しくらい我慢しないさいよ」とか、

「地域の伝統を“みんな”で守ろうとは思わないの?」

といった、金額の多少云々、受益者負担云々、“みんなの気持ち”云々の、皮相的な話ではありません。いま現在の社会の成り立ちに照らした「仕組みの妥当性」についての話です。

じつのところ、これはぼくが所属する町内会だけの問題ではなく、町内の他の町内会、いやそれどころか日本のあちこちで問題視されていることでもあります。裁判事案にもなっています。

なのでぼくはこの4月、町長に宛てて意見・質問書を出しました。「市民の価値観や生活環境が時代とともに変化する中で、こうした慣習は是正されるべきだと思うが、町としてどういう見解を持っているか?」というような内容です。

もちろん、町内会はあくまでも近隣住民が任意に構成する民間組織であって行政機関ではありませんから、これについて町が示すことのできる反応としては、

「各町内会が自主的に判断し方策をとるべきことで、町は見解を述べる立場にありません。ただ、そういった意見が寄せられたことは役場内でも情報共有します。」

という、いってみれば「我関せず」の返答以外には無いことも重々分かっていました。それが行政機関の限界というものです。

で、実際に芽室町役場から帰ってきた答えも、まさにそのようなものでした。

だから、そんなこともあろうかと、ぼくはあらかじめその意見書に、「この意見内容は、役場内だけでなく、所管課を通じて市街地町内会連合会にもぜひ知らせてくださいね」ということも書き添えておきました。

市街地町内会連合会というのは、文字通り、町内会同士の情報共有や地域生活の懸案事項について話し合いをする町内会の連絡組織です。

役場からは「いただいたご意見は町内会連合会に知らせました」と返答が来ていたので、その後、連合会の中でこれについてどのように話し合われたのかなぁ……と思っていたところでした。

それで今朝、うちの町内会長さんに「連合会ではこの件どうなりました?」と尋ねたというわけです。

でも、ある程度予想はしていたことですが、

会長「いや、それについては連合会では全然話題に上がっていないね」。

ふむ、なるほど。なるほど。

まあ、他に話し合わなきゃならない喫緊の課題が山ほどあるでしょうし(どこの町内会や自治会も加入者減少と高齢化とで、いま本当に大変ですよね…)、このような少数意見などは後回しもしくは無視されても、現実的に考えれば、ある意味致し方ないことなのかもしれません。

そもそも、長く保たれてきた慣習や伝統というものは、ある種の(ある立場/ある時代背景における)合理性や妥当性や必要性のもとでその仕組みが形づくられるに至ったのでしょうから、たとえ時代が変わったからといってそうそう簡単に見直され変更され得るものではありません。

伝統的慣習や、それに基づいた“世間の集合的意識”ってのは、強いものです。それに比して、少数者の意見やスタイルは、それが少数・イレギュラーであるということ自体によって、弱いものです。

でも、ぼやいてばかりいてもしょうがないですから、声が届く工夫を凝らし、地道にやっていくしかありません。じっくりまた考えます。

そう、考えないと。ちいさなさかなのスイミーだって「かんがえた。いろいろかんがえた。うんとかんがえた」のだもの。

もしホモ・サピエンスが自分の頭で考えるのをやめたら、現人類は自分たちのことを今後何と呼べばいいでしょう。自分で考えるのをやめたら、生命誌上の偉大な諸先輩がたから笑われ、静かに叱られ、場合によってはお仕置きを受けるかもしれません。