いま観た。考えさせられる内容だった。何について考えさせられたかといえば、「いま」について。あっというまの49分間。再放送があれば、ぜひご覧あれ。
こういう、時宜にかない、かつ、視聴者自らの精神や価値判断に対して真摯に働きかけてくるような企画を、夜10時台に放送できるうちは、NHK、まだぶっ壊さなくてもいいかな。😁
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【むっちゃ長い追記/たぶん読むのは時間の無駄遣い😅】
夕方まで札幌にいて、先ほど自宅へ戻ってきました。日勝峠を車でひた走る3時間半のドライブ。この道すがら、いつもいろいろなことを考えます。
きょうは、ずっと「上・下」「高・低」ということばについて考えていました。
なぜそのことばのことを考え始めたのかは、忘れてしまいました。
それらの言葉について何か明確な「答え」を出すための思考・思索というよりは、むしろ答えなど求めず、それらの言葉が自分にとってどういう意味や価値をもっているのかを確認するために始めた思い巡らしでした。
はっきりいって、ぼく以外の方々には全くどうでもいい、単なる言葉遊びと言ってもいい思い巡らしです。
しかし、以下に、支離滅裂ですが、ドライブ中に頭に去来した思い、考え、イメージを、思い出せる限り列挙してみましょうか。なぜなら、さっきNHKスペシャルをみて、やはり「上下」「高低」のことを再度考えたからです。
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「うえ」と「した」。「たかい」と「ひくい」。これ本来、物そのものやものの部位の物理空間での位置関係を指示したり仮定するための言葉だよなぁ。
その「物理のことば」に、「優劣」や「強弱」や「貴賤」の概念が付け加わって、価値判断や序列判断を指示・表明できることばになったのって、いつであり、また、なぜだったんだろう。
たとえば「上等・下等」。たとえば「高貴・低俗」。うーん。
ことばの発展進化の必然として、自ずとそうなったのかな。それとも誰かが、もしくは社会が、意図してそうしたのかな。
どうもぼくには、高いが「優」で低いが「劣」、または上が「偉く」て下が「賤しい」という価値づけで関係がほぼ固定化されているようにおもえるのだけど、でも、それはなぜなのだろう。何がその価値付けの〈起源〉だったのだろう。
考えてみる。ああ、例えば「大人のアイレベルと、子どものアイレベル」の物理的高低差と二者の力関係といったあたりが一番原初的な起源と言えるのかなぁ。
でも、この例えがもし本当に「上下」「高低」の付加的な概念付けの起源の一つだとしても、でも、それってほんとに十全に正しい対称関係といえるかな。
ぼくにはそうは思えないな。
だって、昨日今日札幌でやった絵本作りWSの場ですら、ぼくよりアイレベルも身体の重心も空間的に低いところにあるあの〈小さな人たち〉、ぼくより〈背が低い人たち〉は、絵本作りにおいて、明らかにぼくよりも優れたひらめき、貴い輝きを放っていたぞ。
森で考えてみよう。森での「生命」を考えてみよう。
ああ、もうそこでは、一目瞭然、絶対的に、「下」で「低」ところのほうが間違いなく生命は密で分厚いではないか。もし地表付近を「最低」とするならば、生の総量や活力たるや、「最低レベル帯」こそ「最強」よ。
で、いわずもがな、「上」や「高」に行くほど、「生」は空疎だぞ。(ただし「疎で薄い」からすなわち「弱」で「賤」であると言いたいわけでもない)
うーん……どうなんだ、上=優、下=劣っていう、我々の言語作法に染み付いてしまった「考え方の常識」は。
ああそうだ! そもそも「重力」じゃんか、上下・高低に圧倒的な影響を及ぼしている、というか、それを決めている〈張本人〉は。グラビティー。
もし重力が我々人間に力を及ぼしていなかったとしたら、上下、高低って、ぼくら、いまと同じ使い方してるかな? 上下高低っていうことば自体、あったかな?
たとえば無重力空間で10年くらい暮らした宇宙飛行士とか、宇宙空間を主たる生活場所にしている優しい宇宙人(日本語が解る)に、「あなたにとって上ってどういうこと? 下ってなに?」って聞いてみたい。なんて言うだろう。
……と、まあいろいろ考えるうちに、さらに、ふと思ったぞ。
(以前のブログでも言及したことがあるけど)例えば、「陛下」「閣下」「殿下」って呼称で他者を呼ぶことで、自分とその他者の立場や関係を表現するやり方って、ぼくにはどうにも、
「ああこれ、やっぱり気持ち悪いな……とても心地が悪いな……」
と思えて仕方がない。いかにそれが、ぼくが生きる「いま・ここ」へ至る歴史において〈伝統的常識〉とされていようとも。
いったい何なんだろう、その上下高低を決めている根拠、価値付けの〈起源〉、つまり〈そこにはたらいている重力〉は。
どこから来る、そしてどこから来た、その〈重力〉。
ほんとにその〈重力〉に身を任せてしまって、両手バンザイしてしまっていて、いいのか。
ぼくは、自分にまつわる上下高低あり方を決める外部要因としては、地球の重力と、あとは月の引力くらいでもう十分、と思う。
そして、やはり地球の重力と月の引力の影響のみにおいて連綿と生命の歴史を重ねてきたであろう森の有象無象のいきものたちの、あの圧倒的な「最底辺ほど分厚い」ってやり方の方にこそ信頼をおきつつ、いきものとしての「いま」を生きたい、と思う。
さっきNHKスペシャルを見て、ふとそう思ったので、書きました。あすも低いところで、密に、楽しく生きようと思います。