不定期日記

共働学舎新得農場

昨日は朝から然別湖である依頼仕事の撮影。その後は北海道旅行中の森田さん親子と合流し、共働学舎新得農場、つっちゃんと優子の牧場のへやを訪問。詳しくはシェア元である菊地さんの投稿をごらんください。見てお分かりの通り、はい、身も心も至福のひとときでした!
 
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さっき、朝食皿洗いと洗濯物干しの手を休めて、フジテレビ「とくダネ」を観ていました。れいわ新選組の山本太郎代表、先の参院選で同党から出馬当選した舩後靖彦さん(多分、自宅からの中継)、木村英子さんが生出演していました。
 
アナウンサーやコメンテーターからの幾つかの質問に山本代表や木村さんが答えた後、中継先へカメラが切り替わり、舩後さんに質問がなされました。それに舩後さんが答えます。
 
舩後さんは難病ALS(筋萎縮側索硬化症)患者。全身の多くの筋肉が動かず、人工呼吸器も装着しているため、音声で発語することができません。文字盤を手にした介助者のサポートにより意思を言葉に変換し、スタジオに返します。
 
介助者が文字盤を指示し、それに舩後さんが目で合図を返すことで、言葉のひらがな音を一文字一文字拾い上げて、文を構築していきます。それに、とても時間がかかります。
 
中継中、介助者が文の内容を確認する作業を何度か繰り返したために、そのことでさらに時間を要したように思いました。
 
普段この情報番組でいわゆる健常者同士が行っている相互発語による丁々発止のコミュニケーションに比べたら、たぶん10倍や20倍ではくだらない長さの時間を要したでしょう。
 
そのように舩後さんが「意思」に形を与える作業をしている最中は、スタジオも、そして視聴者(ぼく)も、無言でその作業を見守ることになります。テレビメディアが視聴者に提示するには、あまりにも長い長い「無言と沈黙の時間」です。
 
ぼくには、人の内側からことばが顕れ出てくること、誰かと誰かがことばを介して意思をやり取りすること、さらには「ことばそのもの」の意味や価値のあり方への再考を否応なく突きつけてくる時間であり光景であると思われました。
 
ほんとうに素晴らしい時間でした。不効率でも、不合理でも、無駄でも、空疎でもなんでもない、むしろ逆。ぼくにとっては、森にいるときと同じような「満ちた時間」。
 
いまの社会には、不断にこういう時間や経験を突きつけられる必要があるように思います。
 
(ついでにいえば、ぼくが先日鑑賞して感銘を受けた映画『万引き家族』においても、そこで描かれた重要なものごとの一つは「声なき声/声にならぬ思い」であったように思います。)
 
このような根源的な“問い”の時間が、いわゆる「言論の府」と呼び称されるあのご立派な石造りの建物の中で、金のバッジをつけたご立派な「代議をする者」「弁士」たちのかしましい集まりの場においてなされる(かもしれない)ことが、本当に本当に価値高いことだと思います。わくわくします。
 
この一点だけをとってみても、“放送禁止物体”・山本太郎がやったことは、本邦の歴史において賞賛に値するとおもいます。これは決して大げさすぎる賛辞ではないと思います。彼や彼らをイロモノ・キワモノとして“娯楽消費”していられるステージはすでに終わっているように感じました。
 
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……と、こんな長ったらしい雑感を書く気になったのもたぶん、昨日、共働学舎を訪ねたこと、森田さんや宮嶋京子さんや湯浅優子さんと言葉を交わしたこと、そして、学舎の男子寮の壁面にかけてあった作者不詳の詩を読んだことが、ものすごく影響しているのだろうな。(詩の内容、ここに紹介したいなぁ。またいつか。)

共働学舎新得農場│共働学舎新得農場とは

いろいろな理由から社会での居場所を見つけられない人がいます。心身に重いげを抱えている人がいます。私たちはそうした人々と共に、そしてそうした人々が共に働く場を北海道十勝、町の大地に営んでいます。 …

改めて、幸せな、いい一日でした。チーズもうまかった…😂。